170 正体
(本当に。あのとき、偶然にもこのふたりに出会えたことが、俺の生涯で二番目の幸運かもしれないな)
そして『生涯最大の幸運』は、間違いなくナイラの存在だった。
(だからこそ)
アシュバルを閉じ込めるこの結界は、正攻法で破れそうもない強固なものだ。
(ここで俺の目的を果たそうとしても、必ず妨害される)
どうしてもノアを退け、クラウディアに解除させなければ逃げられない。しかし、ノアは的確にアシュバルの攻撃を防ぎながら、こちらをじわじわと追い詰めてくる。
まるで、時間稼ぎをしているかのように。
(もう、他に方法は……)
アシュバルは大きな賭けに出て、手にした剣を振りかぶった。投擲槍のようにノアに投げ、その勢いを魔法で加速させる。
ノアの剣で弾かれ、回避されるのは承知の上だ。しかしすかさず立て続けに矢を放ち、黒曜石の瞳を狙う。
ノアはこちらに向かって走りながら身を屈め、一度地面に手を突いて下に躱し、起き上がる反動で跳躍した。足元を狙った矢が石畳に刺さり、細かな破片が散る。
その石片は硝子のように、ノアの体を傷付けた。しかしノアはそんなもの構いもせず、一直線にアシュバルを狙ってくる。
(あんたが石の破片を気に留めそうにないのも、分かっているさ)
だからこそと、アシュバルは笑った。指先を僅かに動かして、その石片に魔力を込める。
(悪い、クラウディア……!!)
「――――……」
矢尻のように尖った石が、クラウディア目掛けて滑空した。
けれども次の瞬間に、アシュバルの世界が反転する。
「っ、ぐ……!!」
「アシュバル!!」
焼け付くような痛みが走ったのは、弓を射るために必要な右肩だった。
「…………」
剣をきつく握り締めたノアが、仰向けになったアシュバルの腹に足を乗せる。
アシュバルの肩口に剣を突き立て、真上からアシュバルを見下ろすノアの双眸には、純度の高い殺気と警告が込められていた。
よく躾けられていて大人しい癖に、奥底には猛獣の血が流れるのを隠していない、そんな目だ。
「……馬鹿だったな」
アシュバルが左の手からも力を抜くと、ばらばらと矢が落ちる。クラウディアは当然のように涼しい顔で、怪我ひとつ負っていない。
「……王になって二年ほどのあいだは、『黄金の鷹』をどうにか壊さずにおけないかって、そんな風に血迷いもした。この国の人が生きていくために、必要なものなんだと……自分の役目も忘れて、一人前の王みたいな顔で」
アシュバルが小さく呟いた言葉は、それでもきっとここにいる全員に聞こえている。
「本当に馬鹿だった。おふくろの言った通り、さっさと壊しておけばよかったのに」
心臓の鼓動に合わせるかのように、右肩が等間隔で痛む。いまのうちに拘束してくるのかと思いきや、ノアは黙ってアシュバルを見据えているだけだ。
「……いや。それで上手く行っていたかなんて、そんな保証はないか」
「あ、アシュバル……?」
ナイラが不安そうに歩いてこようとする。それを無言で止めてくれたファラズに、虫の良い話ではあるが感謝した。
「『黄金の鷹』の主は親父だ。持ち主がとっくに死んだあとに、願いだけが生き続けている……それってすごく歪だよな。故人が願った通りの形のままで、ずっといられるはずがない」
「なあアシュバル、教えてくれ! 私がお前に何よりも聞きたいのは、お前の言う役目の話なんかじゃない」
許してくれ、と心の中で唱える。
早々にすべてを告げるべきだと分かっていた。けれどもアシュバルにはまだ、その勇気が出ないのだ。
「……俺のところに迎えが来るまで、『国が総出で探していた王の息子が、自分のことだと思わなかった』って話しただろ?」
クラウディアとノアにだけではなく、ファラズやナイラにも伝えていた。
「今となっては嘘だと思うかもしれないけど。あれ、ちゃんと本当に本当なんだぜ」
「アシュバル陛下……しかしあなたは、サミーラさまのご命令で、黄金の鷹をと」
ファラズの戸惑いは当然だ。
いくら宮殿の外で育った境遇でも、王の正妃だった母親の元に産まれてきたのだとしたら、自分が王の息子だと想像するのは容易だろう。
しかしアシュバルには、自身が捜索されていると思い至らなかった理由がある。
「本当に知らなかった。だって、間違っているんだ」
「間違っている、とは……」
アシュバルは短く息を吐き、ひとつ目を明かした。
「……だって俺は、親父の息子じゃないから」
「――!」
ファラズとナイラが息を飲み、何処か呆然とアシュバルを見据える。
アシュバルは自嘲の笑みを浮かべたまま、目の前のノアに願った。
「悪かった、ノア。謝るから、クラウディアに質問することを許してくれるか?」
「…………」
相変わらず凍り付くような殺気を纏って、ノアがアシュバルを睨み付ける。この男の前でクラウディアを狙うことは、本当に命知らずな行為だったようだ。
ノアはその怒気を押し殺すように目を伏せると、重い口を開く。
「……その是非は、俺が決めることではありません」
「なあ、クラウディア」
肩口が痛むのを堪えながら、アシュバルは彼女へと問い掛けた。
「あんたはどうして分かったんだ?」
「…………」
ナイラたちにすべてを話さないでいてくれたのは、アシュバルへの配慮だろう。しかし、当のアシュバルこそがそれを尋ねたことで、クラウディアは柔らかな声で話し始める。
「結界よ」
「……後宮の、か」
「あの結界は、すべての人間と魔物が通れない構造になっている。人間である私が動物の姿に変身しても、弾かれるのは変わらないわ」
動物の姿に変わる魔法はひどく難しい。アシュバルのような存在でなければ、容易に出来ることではないだろう。
涼しい顔で話しているが、彼女はとんでもない魔術師だ。
「私にすら見抜けない仕掛けが、あの結界に組み込まれている可能性も考えたの。それから、結界を張った女性の息子だけが特例になる可能性も」
「あれを分析したなんて、本当にすごいな」
「ありがとう。だけど本来ならそういう特例の存在だって、結界を分析すれば分かるはずよ」
クラウディアの薄金色をした瞳が、アシュバルを見据える。
「あの結界は例外なく、人と魔物を通さない。それなら、あなたが通れる理由は明白ね」
「…………」
アシュバルはここで観念して、すっかり全身の力を抜いた。
「……先代国王は、俺の父親じゃない。俺にとっての『父親』は、存在しないんだ」
先ほども言葉にした事実だけではなく、もうひとつの補足を重ねる。
「俺が。……俺こそが」
決して言い淀むことのないよう、瞑目してこう口にした。
「――人間じゃなく、おふくろの呪いが生み出した、魔法道具だから」
「……え……?」
空虚に零されたナイラの声が、鼓膜を揺らす。
だからアシュバルは首を動かし、ナイラを見てなんとか笑みを作った。
「化け物なのに、ずっと人間のふりをしていてごめん」
「……!!」
ずっと言えなかったことを、恐ろしくて逃げてしまったその事実を、ようやくナイラに差し出すことが出来たのだ。
その瞬間、ひどい頭痛がアシュバルを襲った。
「ぐ、あ……!!」
「アシュバル!?」




