168 王の真意
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このところ、月が出てくる時刻になると、アシュバルの頭の中には母の声が響く。
『アシュバル、お前には力があるの。この黄金の国を絶望に陥れる、そんな力が』
これはまだ幼かった頃の記憶だ。都の外れにある雑然とした路地裏で、母は幼いアシュバルの肩を強く掴むと、決まってこんな風に繰り返した。
『あなたの使える特別な魔法があれば、必ずや成し遂げられる。あなたはそのために私が生んだの、いいこと?』
アシュバルとは違う色の双眸が、父と同じらしいアシュバルの瞳を見据えて言う。
『――呪いの道具たる「黄金の鷹」を、破壊しなさい』
黄金の鷹という名称は、物心ついたときから聞かされていた言葉だ。
『黄金の鷹を壊しなさい、何がなんでも成し遂げるの! 私の父を、兄や弟を、大切な故国を狂わせたあの呪いを……!!』
あなたはそのために生んだのだと、母は何度でも繰り返した。
そして事実アシュバルは、母からそのためのさまざまな教えを受けてきたのだ。魔法や戦い方、それから応急処置などの他に、何故か政治の勉強のようなこともさせられた。
『何かあればあの後宮に逃げなさい。後宮の女たちを脅すのもいいわ、殺して盾にすれば時間稼ぎにはなるでしょう。あなたであれば私の結界をも通り抜けて、後宮に侵入することが出来る』
母は血走った目で恐ろしいことを口にすることもあれば、冷静な素振りで淡々とこんな風に言うこともあった。
『あなたの父親に手紙を書いたの。息子が生まれていることを仄めかしたから、あの男が死ねば迎えが来るでしょうね……そうなれば、好機だわ』
迎えとはなんのことなのか、当時はもちろん分からない。
そのうち流行り病で母が死に、盗賊に混ざるようになって、盗みや逃げ方も身に付いた。だからアシュバルは母の言い付け通り、王宮に向かったのだ。
『黄金の鷹を、壊しなさい』
それを果たすために生んだのだと、母に告げられた意味を理解していた。
結局それは失敗し、黄金の鷹に近付くことすら出来ないまま、言われていた通り後宮に逃げ込んだ。
しかしアシュバルは数年後、思わぬ形で黄金の鷹を手中に収めることになる。
国王だった父が死んだあと、世継ぎの王子が捜索されたのだ。母の手紙はそのためであり、大臣たちが探していたのはアシュバルだった。
(あのときは本当に、驚いたな)
狐の姿で後宮に入り、ナイラの住まう宮の屋根を歩きながら、アシュバルは自嘲した。
(黄金の鷹を破壊するためだけに産まれた俺が、次期国王として王宮に上がるとは。……何もかも、おふくろの策の通りだ)
王となったアシュバルは、真っ先に『黄金の鷹』と呼ばれているその代物を手にした。
母が憎んだもの。この辺りの国々が争う原因を作り、たくさんの血を流させた『呪い』の元凶だ。
けれども臣下となったファラズは、「あなたの父君が黄金の鷹を手にしたからこそ、死なずに済んだ人間が大勢いる」と教えてくれた。
(さて)
事前に魔法を掛けておいたから、ナイラや侍女たちはぐっすり眠り込んでいるだろう。狐の姿で庭に降り立つと、人間と違って足音ひとつ立てずに済む。
(――一刻も早く、殺さないとな)
見上げた先の空には、満月が輝いていた。
ナイラにだけは見付かる訳にいかない。慎重に歩みを進め、ここを通らなくては辿り着けない納屋へと向かう。
アシュバルの探し物を仕舞う場所がここであることは、ナイラと過ごしてきた年月のお陰で知っていた。
(見付けた)
弦を外して立て掛けられているのは、黄金の弓だ。
傍らには同じ黄金の矢が仕舞われている。ナイラにこの弓を渡した時、この黄金の矢も揃いで贈ったのだが、矢は失くすのが怖いから大切に取っておくと返されたものだ。
(……いまさら、こんなにはっきりと思い出してどうする)
弓と矢の双方を咥え、狐の四肢で駆け出した。
後宮の結界をいつも通りに抜け、見張りの魔術師たちの目を掻い潜り、先を急ぐ。
向かったのは、王の権限によって立ち入りを禁じている物見の塔だ。
後宮からその場所に移設した女神像は、母が遺したものだった。ふるりと狐の身を震わせると、砂避けのローブに身を纏った人の身に変わる。
そして、かつて自らが造り出した金色の弓と矢を手に取った。
「さて、と」
母に教え込まれたこともあり、弓の扱いには自信がある。それが良いことであるかどうかは、ともかくとしてだ。
人の形をした手で弓を持ち、矢をつがえる。そうやって準備を進めながら、巻き込んでしまった人物に心から詫びた。
「……悪いな、ノア。俺の代わりなんかさせちまって」
遠くから様子を見守っていたが、王宮に混乱した様子はない。アシュバルの見立て通り、ノアは王の代理を問題なく務めてくれている。あとはファラズの補佐があれば、滞りなく進むだろう。
(これで、ようやく殺せる)
そう思うと、へらっとした軽薄な笑みが口元に浮かんだ。
弓を構えて矢を引き、弦を絞る。片手で握る弓の重さに、女の子に贈るものではなかったと今更ながら気が付いて苦笑しながら。
真上に見えるのは満月だ。
その月を目掛け、アシュバルは黄金の矢を放った。
(さあ、射抜け)
矢は真っ直ぐに空に上がるが、とはいえ月に届くはずもない。
一定の高さまで昇ったあとに、重たい矢尻を下にする形で上下が反転した。
(降りてこい)
重量のある黄金の矢が、ぐんぐんと速度を上げながら落ちてくる。自らの真上に迫り来る矢尻を見て、アシュバルは確信した。
(――この矢でなら、『俺』を殺せる)
安堵の笑みを浮かべた、そのときだ。
「……っ、馬鹿……!!」
「!?」
聞いたことのある声がして、ひとりの女の子が飛び出してくる。
夜明け前の夜空のような青い髪を持つその少女は、宮で眠っているはずのナイラだった。




