165 月と怖がり
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小さな六歳の女の子姿になったクラウディアは、大きな蛇の頭を撫でながら、ヤシの実のジュースをちゅうちゅうと飲んでいた。
アシュバルの婚約者であるナイラの庭には、幼い少女『アーデルハイト』としての姿で訪れるようにしている。小さな素足を浸した水は、やはり独特の魔力を帯びているのだ。
(やっぱり私の宮の水場と同じね。この水は、大地に流れる正常な魔力の脈に沿っている)
たとえ辺り一帯が『黄金化』の呪いに汚染されても、この水の傍にいれば、少しの間は無事でいられるだろう。
(あくまでその程度。呪いの力に抗うほどではないけれど)
クラウディアにお菓子を出してくれたナイラは、日課の弓の鍛錬中だ。庭の隅にある的に向けて、黙々と矢を放っている。
その手に握られた鳥の形の弓は、今日も美しい黄金に輝いていた。
(女の子たちから聞いた『過去一回の結界の張り直し』は、時期としてアシュバルが生まれる前のこと。ここ近年で行われていないのであれば、幼いアシュバルが怪我をして後宮に迷い込めたはずがない)
この結界は、『王を含めたすべての人間と魔物を通さない』という構造になっている。
(狐の姿になっていれば……という訳でもなさそうだったわ。私も猫ちゃんに変身してみたけれど、結界に弾かれてちょっぴり焦げちゃったもの)
くちびるを尖らせつつ、ミルクティー色の髪の毛先をつまんだ。
本当は自分で対処できるのだが、ノアに会った時に手入れをしてもらいたいので、そのままにしているのである。
(アシュバルのお母さまが、後宮から逃げ出せたことも。王から頻繁に寝所へと呼ばれていれば、隙をついて魔法で逃げられたかもしれないけれど……お渡りは一度だけ。二度目があれば後宮内で噂になっていないはずもない)
姫が王に呼び出されるのはとても目立つと、クラウディアは実体験で理解している。
王が後宮にやってくるのも同様で、国の世継ぎ問題に関わる以上、『秘密裏に』ということは有り得ない。
(ひとつだけ、考えられるとしたら)
植物の茎を利用したストローを咥えつつ、クラウディアは結論付ける。
(現在の結界を張った人物こそが、アシュバルのお母さまだという可能性ね)
張本人なのであれば、結界を一時的に消すことも、自分が出てからすぐに張り直すことも難しくない。
たとえば後宮中が寝静まった夜の間に結界を消し、抜け出して元通りに戻すまで、それほど時間は要さないはずだ。
(アシュバルのお母さまが、結界魔法に秀でた人物であればという前提だけれど。出自が何処かの国の王女だったりしないかしら?)
それに、まだ懸念はある。
(たとえそうであったにしても、子供のアシュバルが結界を通れた理由にはならないわ。母親から結界の消し方や、張り直し方を教わっていた? ――いいえ。違うわね)
魔力に親からの遺伝はあっても、決して親と同一にはならないはずだ。
(アシュバルはそれ以降かつ王になるまでの間も、頻繁に後宮に出入りしているようだったし。母親が逃げ出したときのように、秘密裏に侵入できる可能性は低い……)
ううんと首を捻りつつ、空を見上げる。
硝子の膜のような結界は、何処までも透明ではあるのだが、確かにそこに存在しているのが目視できた。
(この結界の構成を、解析しきれていない……ということかしら)
そんなことは、前世を含めてもあまり経験がない。クラウディアにとって、これは興味深いものだった。
(結界の主は、素晴らしい術師だったのね。この術師が何かを封じるために全力で結界を張ったのなら、私でもなかなか見抜けないわ)
ぷあっとストローから口を離し、ナイラの方を見遣る。彼女は先ほどから鍛錬の手を止めて、ぼんやりと空を眺めているのだ。
「ナイラおねえさん、どうしたの?」
「!」
クラウディアが声を掛けると、ナイラははっとして目を見開く。そして何かを誤魔化すように、顎に伝う汗を手の甲で拭った。
「なんでも、ないんだ。ただ、今夜は満月だったなと」
「おつきさま?」
「……あー、その……」
首を傾げれば、ナイラはますます気まずそうな顔になる。『月』という言葉が彼女にとって、何か大きな意味を持っているようだ。
「あいつが」
ナイラがそんな風に称するのは、名前を出さなくともアシュバルのことである。
「ここ一年ほど、満月の夜にばかり会いに来るから。……もしかしたら今日もと、そう思って」
(満月……)
その言葉にも引っ掛かる。しかしクラウディアが最も気になったのは、ナイラの表情だった。
(有り得ないわね)
ナイラのくちびるはきゅっと結ばれ、震えている。その体も何処か強張っていて、緊張した様子が見て取れた。
黄金の弓を握り締める手には、祈りを捧げるかのような切実さが込められている。
(これが、愛しい婚約者に会えるかもしれないと想像する女の子の顔かしら)
クラウディアはそれに気付かないふりをして、無邪気に尋ねた。
「えへへ。おねえさん、早く王さまに会いたい?」
「…………」
ナイラは微笑みを作ろうとして、それがやっぱりぎこちなく引き攣る。
「あいつが、私に会いたがっていないと思う」
「……おねえさん?」
ナイラの体は震えていた。
(……まるで、アシュバルのことを怖がっているかのよう……)
クラウディアの中に、ひとつの想像と胸騒ぎが生まれた。
「……わたし、今日はかえるね! おねえさん、またあそぼ!」
「アーデルハイト?」
「ごちそうさまあ!」
出してもらったお菓子やヤシの実をひとつに纏め、侍女が片付けやすいように置いておく。ぱっと駆け出したクラウディアは、瞬時に考えを巡らせた。
(この予想が的中したら、最悪ね。……だけど、そうだとすれば時間がない)
ナイラの宮を出て死角に飛び込み、誰にも見られていない場所で大人の姿に変身する。
(『満月の夜、アシュバルが後宮にやってくる』のであれば。……今夜もそれに当て嵌まるのなら、陽が沈むまでに動かなくちゃ)
たとえ百五十七センチまで伸びた身長でも、ここから王宮にいるノアの姿を見付けられるはずはない。けれどノアと合流しなくては、ここから取れる行動が制限される。
(いつもの『夜伽』の名目は、夜を待たなければ使えないわ。それでは間に合わないし、私からの手紙が早急に取り次がれるかも分からないわね)
姫が王のお渡りを請うのは、後宮において日常茶飯事だろう。クラウディアが緊急だと頼んでも、遣いの判断で後回しにされる可能性はある。
(この手は避けたかったけれど。結界を破壊して、突破するしか……)
そのときだった。
「きゃああっ、大変よ!」
「!」
後宮内で最も大きな通りから、女性たちの悲鳴に近い声がする。緊急事態に思えたものの、実際はそうではなかった。
「陛下が! 国王陛下が後宮にいらっしゃったわ!」
(まさか……)
後宮内の入り組んだ路地から踏み出したクラウディアは、後宮の正門に繋がる石畳の道に出る。
そして真っ直ぐに見据えた先で、黒曜石の色をした双眸を捉えた。
(ノア)
詰襟に刺繍を施された王の衣服に身を包み、鮮やかなマントを翻した美しいノアが、クラウディアを見つける。
クラウディアが駆け出すと、ノアは迷わずに手を伸ばした。彼の腕の中に飛び込んだクラウディアを、強い力で抱き締める。
「――ディア」
そうしてクラウディアの名前を呼んだとき、周囲の女性たちが歓声のような悲鳴を上げた。
ノアはクラウディアにだけ聞こえるように、耳元で柔らかな声を紡ぐ。
「……無礼をお許しください、姫殿下。一刻を争う、ご報告が」
(ふふ)
少し低くて掠れた声は、あの小さかった少年のものとは思えなかった。クラウディアは笑い、ノアの背にぎゅうっと腕を回す。
「……王宮の寝所に連れて行ってくださいませ。『陛下』」
そうねだると、ノアは演技ではなさそうな溜め息をついたあとに、クラウディアを横抱きに抱え上げたのだった。
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