164 美しい女神
「……アシュバル陛下が、このタイミングで王宮に戻られる可能性は無いのですね?」
「安心しろ、陛下とは俺も連絡がつかねえ。しばらく帰る気がねえってことなら、好機はいまだ」
ノアは溜め息をつき、部屋の出口に歩き出す。
「おい、坊主」
「さっさと行きましょう。女神像を警備する魔術師たちのところに着く前に、立ち入りの言い訳を考えておいてください」
「ははっ。承知しましたよ、我が主」
ノアから見れば有り得ない軽口だ。ファラズの方を振り返らず、ノアは女神像の元へ向かった。
アシュバルの姿にしか見えていないノアが許可を出すことで、難なく扉が開け放たれる。ファラズが警備に怪しまれない理由を語ったので、おかしな噂がアシュバルの耳に届くこともないだろう。
女神像が設置されているのは、王宮でも最も高い場所にあり、遮るものがなにもない物見塔の頂だ。
「おっと。ここから落ちたら命はねえな、こりゃ」
ファラズがそう言いながら、女神像の方に歩いてゆく。ノアも顔を上げ、真っ青な空を背にして立つ女神像を見据えた。
そして、息を呑む。
「この女神像は、陛下の母君であるサミーラさまが、廃墟も同然となった故郷からお持ちになったものだ。後宮のご自身の宮に設置して、心の拠り所にしていた」
「…………」
「アシュバル陛下が後宮から女神像をここに移して、事あるごとにひとりで見に来ていたんだよな。母君の墓代わりではなんて言う奴がほとんどだが、俺はなにか怪しいと踏んで――」
ファラズの語る言葉さえ、あまり耳には入らなかった。
精巧に造られた女神像の、クラウディアに並ぶほど美しいかんばせに、強烈な既視感があったからだ。
(……この女性は、誰だ?)
心臓が嫌な鼓動を刻む。
(まったく知らない顔だ。それなのに、知っているように感じる…………誰かに、似ている)
この女神像と同じくらい美しい女性の姿を、ノアはひとりしか知らない。
そんな存在であるクラウディアのことを思い浮かべれば、この像は確かにクラウディアに似ているように思えるのだ。
(……姫殿下の母君、か?)
ひとつの可能性に思い至り、眉根を寄せる。かつて歌姫と呼ばれたその女性は、クラウディアを産み落としてすぐに亡くなったはずだ。
(だとしても何故ここに。それも、『女神』として……)
その瞬間、ノアははっとした。
女神像の胸元には、トパーズの首飾りが輝いている。ノアは女神像の元に近付くと、ファラズよりも先に手を伸ばした。
「おい坊主、気を付けろよ。一体なんの仕掛けがあるか」
(この首飾り。確かに違和感があるが、呪いの気配は無い)
黄金色の宝石に触れようとしたそのとき、激しい雷のような衝撃が走った。
「!!」
「っ、坊主!!」
ファラズが慌てて手を伸ばし、ノアの肩を掴んで引き寄せる。咄嗟に結界を張ったものの、指先には強い痺れが残っていた。
「これは……」
このトパーズの首飾りには、強い結界が張られている。一流の魔術師によって施された、そんな結界だ。
『いいこと? ノア。結界には主に、ふたつの役割があるの』
ノアは子供の頃、クラウディアにこう教わっていた。
『ひとつは外の敵を拒み、中にあるものを守ること。そしてもうひとつは、中のものを外から隠したり、出られないように閉じ込めること』
海の底にある学院が、結界の外殻によって海水を阻んでいるように。
後宮に誰も侵入できない代わりに、誰ひとりとして逃げ出せないように。
結界は蓋をして、覆い隠すための機能も持っている。
だからこそ、気が付くことが出来なかったのだ。
「くそ……」
ノアは舌打ちしたいのを堪え、ぐっとその手を握り込んだ。
「――ファラズ殿、下がってください。決してこの女神像に触れないように」
「坊主?」
ノアはファラズの腕を掴むと、いま来た道をそのまま引き返した。
「おい坊主、いきなり何を……」
「このまま引き続き、誰ひとり近付いてはならないとの厳命を続けるべきです。その人間だけでなく、この国に住まう全員の命に関わる問題となる」
「坊主! どういう意味だ、説明しろ!」
「あなたをここから退避させるのが先です。事態は一刻を争いますので」
転移を使えればいいのだが、それでは警備の魔術師に怪しまれる。ノアはもどかしい思いでファラズを引き摺りつつ、一瞬だけ振り返って女神像を睨んだ。
(……あれは、呪いの魔法道具だ)
結界によって封じ込められ、何食わぬ顔をして黄金に輝く。
そんなトパーズの首飾りが、美しい女神の胸元で揺れているのだった。
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