162 正妃(第4部3章・完)
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「アシュバル陛下のお母上であるサミーラさまは、近隣国の王女だった。その当時にはもう既に、滅んでいた国のな」
「…………」
ファラズに連れられてやってきた王宮の地下室は、壁際にさまざまな酒瓶や樽の並んだ部屋だった。
石壁に囲まれた頑丈な造りで、日中だというのに空気が冷たい。
『体調が優れないため本日の公務を取り止める』と通達した王の代理人が、密談のために閉じ籠っても、滅多なことでは他人に見付からない構造だ。
「先代陛下は『黄金の鷹』を手にいれ、わずか千夜で強国を作るに至ったがな。その過程には困難があり、それをよく思わない国や、羨む国もあって当然だ」
テーブルを挟んだ向かい側のファラズが、葡萄酒の瓶の蓋を開けながら椅子に掛ける。ノアは納得しつつも、わざわざそれを口には出さない。
過酷な砂漠の中にあって、この国は大量の黄金や、雇われた魔術師の生み出す水や植物が豊富に得られたのだ。
「近隣国から仕掛けられた戦争には、俺たちが勝った。敵国で生き残ったひとりの王女サミーラさまを、先代陛下は正妃にしたんだよ」
「わざわざ、自分を恨んでいるであろう王女をですか?」
「巨万の富があるとはいえ、成り上がりの盗賊が王になったんだ。先代陛下は由緒正しい王族の血を引く後継ぎが必要だと考え、サミーラさまの保護も兼ねて後宮に入れた」
血統主義はくだらないものにも感じるが、魔力の多寡は血筋によって決まる部分も多い。国防や政治のためだとすれば、ある意味では合理的なのだろう。
「サミーラさまは、それはもうこの国を憎んでいてな。親の仇、故国を滅ぼした敵国なんだから当然だ」
「……」
「そしてその争いの原因となった黄金の鷹をも、忌み嫌っていらしたよ」
ファラズはそこまで言い、ふたつの器に酒を注ごうとする。
「酒でしたら、ファラズ殿だけでお楽しみください」
「なんだ、つい最近成人の十六歳になったって言ってなかったか? 弱いのか」
「知りません。飲んだことがないので」
「ここは先代陛下が臣下とこっそり酒を飲むために作った部屋だ。酔っても安心できる環境で飲んでみて、自分の強さを試しておくのも必要だぞ?」
「酔っても安心できる環境ではないので、ここでは飲まないことにします」
あくまではっきり断言すると、ファラズがまるで子供のように口を尖らせる。そんなことよりも続きを話せという意思を込めて睨むと、ファラズは自分の酒を注ぎながら話した。
「サミーラさまはただでさえ、この国に戦争を仕掛けてきた国の王女だ。輿入れをよく思わない人間も多かった」
独特な赤色をした液体が、黄金の器に注がれてゆく。魔法で分析した訳ではないが、おそらく本物の金だろう。
「それでも気丈な嫁入り道中だったよ。王室の唯一の遺品だっていう、金色をしたトパーズの首飾りが光っていてな」
「……」
「この辺りの地域では、黄金は太陽を、太陽は王を示す。そして王妃を象徴するのが月だ」
それについては明白だった。王に向けられる賛辞や渡される衣服に、太陽を思わせる要素は多い。
「『正妃サミーラさまは、自分の夫になる王の象徴と同じ色を身につけることで、精一杯の献身を示したのだ』なあんて言う人間も居たんだがなあ。――輿入れの夜に、とある不運が起きた」
すべてその目で見てきたであろうファラズが、杯の酒を一気に干してから言う。
「月が欠ける現象――――……月食が起きたのさ」
「……月食……」
月食というのは、満月が欠け消えては再び満ちてゆく、その移り変わりがたった数時間で起こる天体現象なのだそうだ。
ノアが生まれてから一度も起きていないため、この目で見たことはない。けれどもクラウディアから聞いたことも、書物で読んだこともあった。
「王が太陽で、妃が月。こんな伝承が根付く地域で、よりによって嫁いできた晩に月が欠けた。元来この辺りで月食は不吉とされていて、王の死を表すとしている国もあるくらいだ」
「では、由緒正しい血筋のために迎え入れたはずの、王妃という存在が……」
「そう、完全に負の要素として働くようになっちまった。サミーラさまは後宮でも虐げられ、国民からも恐れられ……先代陛下も手を打とうとしたが、そもそも陛下がサミーラさまに恨まれているときた」
表面的な話を聞いただけでも、正妃の暮らしが幸福でなかったことは想像がつく。
「憎い敵の国に嫁がされ、月食が示した不吉の妃と呼ばれ。サミーラさまが後宮から逃げ出したと聞いたとき、俺は納得したよ」
「……陛下のご母堂が、この国や先王陛下を憎んでいた経緯については分かりました。本題はここからでしょう?」
ノアが静かに促せば、ファラズは二杯目の酒を注ぎながら口の端を上げる。
「――アシュバル陛下の真なる目的は、亡くなった母君のための復讐じゃねえかと踏んでいる」
「…………」
ファラズの背信に、ノアは静かに目を眇めた。
「ファラズ殿は先王陛下に恩義がある、アシュバル陛下の忠臣だと捉えていましたが」
「先王陛下に恩があるのは本当で、だからこそだ。アシュバル陛下の行動がこの国の富や安寧を脅かすものであるならば、俺は恩人の息子を殺してでもそれを止めねばならん」
(……この男。そこまで覚悟して……)
「そもそもだ、坊主。俺はずっと内心で、アシュバル陛下の発言に疑問を抱き続けていた」
器になみなみと注がれた酒に、ファラズは口を付けないままで言う。
「――『黄金の鷹は、本当に何者かによって盗まれたのか?』」
「…………」
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第4部最終章に続く




