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160 王への裏切り

***


 シャラヴィア国王アシュバルは、砂と日除けのローブを纏い、昼ひなかの砂漠を歩いていた。


 まばらにつけられたラクダの足跡も、この一帯は綺麗に回避されている。立っているのはアシュバルだけで、少し離れた場所に黄金の都が見えるものの、辺りに人の声すら聞こえない。


 ゆうべはここに、竜が出たのだ。


 アシュバルは身を屈めると、灼熱を帯びている白い砂に触れた。地脈から僅かに滲む魔力に顔を顰めたあと、ぽつりと呟く。


「あの竜は、ノアがやったのか……」


 改めて見上げた街の中央には、目が眩むほどに眩い宮殿が建てられていた。


 アシュバルはその傍に少しだけ見える、ターコイズグリーンの宮に目を遣る。ふたつ見える頂のうちのひとつでは、幼馴染である女性が今日も、弓の鍛錬に励んでくれている時刻だろうか。


「ナイラ」


 彼女の名前を呟いて、アシュバルは目を眇めた。


「……会いたいな……」


 そんな言葉が虚しく響き、思わず自嘲の笑みが溢れる。こんなところで独り言を呟くなど、らしくもないと叱られそうだ。


 アシュバルはフードを深く被り直すと、一歩踏み出す。


 その姿はたちまち一匹の狐に変化して、滑らかな砂にてんてんと、小さな足跡をつけてゆくのだった。



***



「よおよお坊主、お疲れさん」

「…………」


 にこやかなファラズからの声掛けに、王の代理を続けているノアは顔を顰めた。


 彼の浮かべる満面の笑顔には、揶揄いの色が濃く滲んでいる。少なくともこんな早朝に、王宮の回廊で見たい表情ではない。

 げんなりしたノアが静かに睨み付けると、ファラズはますます楽しそうに笑った。


「っ、はは! 本当にお疲れのようだなあ」

「少し黙っていただけますか。俺も寝不足で余裕がありませんので」


 他国の重鎮に対して有り得ない言葉遣いをしてしまうものの、この男に限っては構わないだろう。ファラズは髭の生えた自身の顎を手で撫でながら、彫りの深い二重が刻まれた目を眇める。


「このところ毎夜、お前のお姫さまがお泊まりだもんなあ。――惚れた女に手出しできない気苦労に揉まれて、お前さんも可哀想に」

「……だから、そういった対象ではないと何度言えば……」


 反論するのも疲れてきて、ノアは溜め息をついた。


 あの火竜が砂漠に現れた日から、今日で三日が経つ。

 クラウディアとの情報交換のため、ノアは夜になる度に『夜伽』と称し、寝所にクラウディアを招いていた。


 姫を王宮に召し上げるのは、宮内警護の観点からも大変に目立つ。

 王が後宮に通う方が人目に付かないのだが、アシュバルへの最低限の礼儀としてそれを避けている以上、毎晩の盛大な迎え入れが行われていた。


(すべてが解決したあとは、俺が代理であることを伏せたまま、姫殿下の正体だけを後宮の調査員だったと公表して寵愛がなかったことを明かすらしいが……)


 それでも現状は、宮殿内で『王がディア姫にご執心』という噂に歯止めが効かない。耐えるしかないのは分かっているが、どうしても主君に対する背徳感が拭えなかった。


(とはいえ、人目を避けている場合じゃない)


 クラウディアとノアの見解は、ここ数日で一致している。


『黄金化の呪いが及ぶ範囲は、徐々に拡大していっているわ』


 火竜が倒れた地点だけでなく、他にも地脈に巡る魔力が不安定な箇所が見つかったのだ。


『このまま砂漠を広がっていけば、都や国も危険ね。やがては大陸中に広がって、世界を飲み込むはずよ』

『……そうなれば、この世界中の生物が黄金に……』


 寝台に転がったクラウディアは頷いて、枕を抱きしめた。


『やっぱり、黄金の鷹についてを知らなくてはね。アシュバルと接触したいのに』

『予め連絡手段を決めておいたにもかかわらず、アシュバル陛下からは一切の応答がありません。病や怪我の類でなければいいのですが』

『私たちではなく、臣下を経由した方がいいのかもしれないわね。……ノア、少し荒療治だけれど……』


 それが昨晩のやりとりだった。クラウディアひとりに寝台を使ってもらい、長椅子で仮眠を取ったノアだが、寝惚けたクラウディアが夜中にくっついてきたりと心労が多い。


「なんだかんだ言ってお前さん、やっぱディア殿に惚れてるだろ?」


 そして目の前のファラズは、ノアの心労を心から面白がっているのだ。


「まさしく絶世の美女だもんなあ。安心しろって! あの女性に命を助けられたら、人生めちゃくちゃになるくらい惚れない方がおかしいさ」

「…………」

「早めに認めないと、いずれ後悔することになるかもしれないぞ?」


 警告めいた妙な発言に、ノアは思わず言い返す。


「そのような後悔など、するはずもありません」

「……まったく。本気でそう信じられるところが若さというか、可愛いというか……」

「そんなことよりも」

「!」


 ノアが無詠唱で発動させた魔法に、ファラズが目を丸くした。


 これは気配遮断の魔法だ。この辺り一体の回廊を取り囲み、周囲の人間からノアとファラズの存在に気付きにくくする。


 王宮の各所に配置された警護の人間が通り掛かっても、ノアたちの異変を察知する者はいないだろう。


 ファラズがノアを見て、薄い笑みを浮かべながら尋ねてくる。


「……坊主。なんのつもりだ?」

「突然の非礼をお詫びします、ファラズ殿」


 ファラズの腰にさげられているのは、刃が三日月のような形をした湾刀だ。彼がその柄に手を置くのを見据えながら、ノアはこう続けた。


「生憎ですがあなたには、我々の目的に協力していただかなければなりません」

「いきなり横暴だなあ! まずは話し合いから始めようぜ。何を望んでいるのか知らないが、坊主らしくねえことをするじゃねえか」

「残念ながら、手段を選ぶ余裕がなくなりつつあります」


 昨晩クラウディアに命じられたことは、ファラズを巻き込むこの方法だ。


『私の勘が当たっているなら、あのおじさまは……』


 ファラズはくっと喉を鳴らして笑い、湾刀の先をノアに向ける。


「いいのか坊主。王宮でこんな真似をするなんざ、大罪だぜ? お前の愛しいお姫さんにも、とんでもない迷惑が――」

「……罪人として捕らえられるとすれば、俺ではなくあなたです」


 ノアが告げたその言葉に、ファラズが眉を動かす。


「――この王宮にいるあなた以外の人間にとっては、俺こそが国王だ」


 そう告げると、ファラズの顔から完全に表情が消えた。


「アシュバル陛下に姿を偽装する魔法道具のおかげで、外見は完全に騙せる。国王と変わらない政治の方針を発揮し、すでにこの王宮に潜り込んでいる俺がこのまま王に成り代わるのは、いとも容易い」

「…………」

「第三者から見れば、俺を偽者だと糾弾するあなたの方が大罪人となる。……お分かりですか?」


 その場でゆっくりと俯いたファラズが、にわかに肩を震わせ始めた。


「……」


 ノアは念のため左足を半歩引き、最低限の戦闘体勢を取る。しかし、ファラズは片手で自らの口元を押さえつけると、面白くて仕方がないというように笑い始めたのだ。


「っ、はは、はははははは!! いいぞ、お前さんがそう言い出すのを待っていた!!」

(……やはりこの男。姫殿下の推測通り……)


 クラウディアは昨夜、寝所でこう口にしたのだ。


『あのおじさまは。私たちがアシュバルの信頼を裏切るのを、待ち構えているのではないかしら?』


 ファラズは嬉しそうに目を眇めると、油断ならない気配を帯びたままノアに告げる。


「坊主。ここはひとつ、俺の共犯にならないか?」

「…………」


***

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