155 寵姫の出迎え
その夜、後宮にたったひとつだけの門が、外に向かって開かれていた。
夜間に門が開くのは、実に数ヶ月ぶりなのだそうだ。後宮の姫を乗せるためのラクダは、月を模った装飾の鞍をつけられて、王の寵姫をゆったりした足取りで運んでゆく。
ラクダの手綱を引くふたりの女性魔術師は、十分にも満たないその道行きを護衛してくれていた。
その鞍に横座りで腰掛けたクラウディアは、真っ白なベルベットのローブを羽織っている。砂漠の夜は冷えるため、たとえノアの指輪に守られていようとも、ふさわしい装いが必要だ。
雲を使って織り込んだようなそのベルベットは、月の淡い光を受けてほんのりと輝いている。長い裾の下方には、星を思わせる小さな宝石がいくつも縫い込まれ、散りばめられていた。
クラウディアが顔を上げれば、王の部屋に続く黄金の扉が見えてくる。そしてその扉の前には、数人の護衛を傍に控えさせたノアが立っていた。
深いサファイアブルーの詰襟服は、まだまだ成長途中でありながら、しっかりとしているノアの体格をよく魅せている。
太陽を思わせるような、精緻で煌びやかな金の刺繍が施され、それが遠目にあっても美しい。
クラウディアが与えた耳飾りだけでなく、首飾りや腕輪に指輪といった装飾品を身に着けている姿は、いささか珍しいものだ。
正しい姿勢で立つその姿は、見ている者も自然と佇まいを直したくなるほどだ。王らしき悠然とした余裕がありながら、剣士としての自然な警戒も怠っていない。
それらが重なり合って生まれる威厳を前にしては、誰もこれが偽物の王だなどと思わないだろう。
(ふふ)
三日ぶりに顔を合わせるノアは、眉間に少し皺を寄せている。
それがあまりに可愛くて、クラウディアは小さく微笑んだ。するとノアではなく、その左右に立つ護衛たちの方が動揺して息を呑み、クラウディアに釘付けとなって惚けた目をする。
「……驚いた。絶世の美女とは、まさにこのこと」
ノアの一番近くに立つ男が、小さな声で呟いた。
遠くから集音魔法でそれを耳にしたクラウディアは、彼とノアの距離感が少し近いことに気が付く。ノアがうるさそうに顔を顰める様子も、王宮でその男と頻繁に会話を交わしているからこそなのだろう。
(アシュバルが言っていた、事情を知る側近のおじさまかしら。名前はファラズ……)
ノアの素直な表情を見て、王宮内にそんな相手がいることを嬉しく思った。クラウディアを乗せたラクダは、そのままノアの前でゆっくりと止まる。
クラウディアは高い鞍の上から、ノアを見下ろして柔らかく告げた。
「私の我が儘を聞き入れ、今宵お時間を割いてくださったこと。心から嬉しく思います、陛下」
そうして次に、ノアの方に右手を差し出す。
(いまの私は主君でなく、王であるお前の寵姫よ。――分かるわね?)
そんな意図を込めて微笑めば、渋面のノアは小さく溜め息をつく。
その上で一歩踏み出すと、クラウディアの述べた手を取った。
クラウディアの体が魔法でふわりと浮き、纏っている純白のローブが翻る。裾に散らした宝石がたいまつの光に瞬いて、まるで流星群のようだ。
そうして鞍から降ろされたクラウディアの体は、ぽすんとノアに抱き止められる。
ノアはクラウディアの背中に腕を回し、大切な壊れ物を扱うように抱き締めると、耳元でこう囁いた。
「――『ディア』」
「!」
クラウディアのことを呼んだのは、低くて少しだけ掠れた声だった。
本当の名前を使った偽名のため、まるでノアに愛称を呼ばれているかのようだ。やさしく梳くように髪を撫でたあと、静かにこう尋ねてくる。
「後宮で、不便な思いをしてはいないか」
「……ええ、陛下。いただいた贈り物のお陰で」
そう教えると、少しだけ安堵したようだ。
ノアはクラウディアへの華美な賛辞を口にするでもなく、それでいて周囲に見せ付けるように口説くのでもなく、ただ願う。
「早く寝所へ。……ふたりだけになりたい」
そんな端的な言葉こそ、却って周囲には説得力があったのだろう。周囲の護衛たちは驚いたあとに、恋人同士の触れ合いにあてられたかのような雰囲気で、少し咳払いなどしながら俯いた。
(満点ね。私のノア)
この様子を見た者は、クラウディアが王の寵姫であることを疑わないだろう。
クラウディアが後宮を調べていることも、この逢瀬が互いの情報共有であることも、すべてを完璧に覆い隠してくれたはずだ。
(黄金の鷹が見付かった後にはアシュバルの口から、『ディア』は後宮調査のための人員だったと説明される手筈だもの。私の存在がナイラに長期的な悪影響を及ぼす心配もないわ)
クラウディアはノアから身を離すと、間近に見上げてにこりと笑う。
「……抱っこして?」
「………………」
小さな頃と同じ言葉で甘えると、ノアは頭痛を我慢しているかのような顔をしたあとに、クラウディアを横抱きに抱え上げてくれたのだった。
***
「……姫殿下……」
「ふふっ。会いたかったわ、可愛いノア」
その寝台に降ろされたクラウディアは、白いローブを脱いで転がると、シルクのシーツが露出した肌に触れる感触を楽しんでいた。




