144 後宮での目的
「ん。おいしいわ」
よく冷やされたオレンジの果実は、分厚い皮を花の模様に切り込まれ、その上に食べやすく切られた果肉が並んでいる。
クラウディアは瑞々しい果実をフォークに刺し、くちびるに運びながら、つまさきを水につけてぱしゃぱしゃと跳ねさせた。
(この後宮に入って三日目。なんだかあっという間だったわね)
クラウディアが寵妃として招き入れられた後宮は、とても広い。隅々まで歩いて回ろうと思えば、きっと二時間以上は掛かるだろう。
後宮の中央には大きな噴水があり、その水が水路から隅々に行き渡っている。
砂の中に飛び石のように埋め込まれた大理石の石路は、ひとつひとつが鳥や花のような紋様を描くモザイクタイルとして配置されていた。
そんな水路の傍らに沿い、居住のための建物が百を超えて建ち並んでいる。建物はすべて金色とターコイズグリーンの色彩で統一されていて、見目鮮やかだ。
その中でも大きな宮が二つあり、そのうち東にある宮には、この後宮で最も身分が高い妃が暮らしているそうだ。
鮮やかなターコイズグリーンに塗られた壁は高く、隙間なく後宮を囲っている。その壁の外側や後宮の上空には、強固な結界が張られているようだ。
(挨拶に来た侍女頭の説明だと、この結界は後宮内に砂漠の砂が吹き込まないため……そして、侵入者を阻むためのものだというけれど)
クラウディアはくすっと笑い、ガラスの器にフォークを置いた。
(何よりも、女たちを外に逃さないため。……ここは海底にある学院よりは、脱出も進入も容易だものね)
後宮の中に入ってこそ、はっきりと見えてくるものもある。後宮に入る前、クラウディアはノアにこう告げていた。
『「黄金の鷹」が呪いの魔法道具だとして。それが隠されていた場所のひとつには、後宮が考えられるのではないかしら』
『…………』
らくだの背中に跨ったノアは、前鞍に乗ったクラウディアの発言に目を眇めた。
大人姿のクラウディアは、ノアが手綱を握るらくだの上で悠々自適の移動をしている。砂漠を渡るのが得意ならくだの上は、馬と同じくらい揺れて楽しい。
『それを疑っていらっしゃるからこそ、姫殿下は……』
『悪い子ねノア、さっき練習したでしょう? 「ディア」』
アシュバルは先に宮殿に向かっており、この砂漠は見渡す限りふたりきりだ。この状況で王のふりを徹底する意味はないのだが、分かっていてにこりと微笑んだ。
『……ディア、は。そのために、後宮に入ると仰るので……』
『出奔先で見付けた踊り子を相手に、王さまがそんな口調で話したりしないわ』
人差し指を立て、ノアのくちびるをつんと触れながら叱る。するとノアは諦めたらしく、
深い溜め息のあとで言った。
『……ディアは、それを疑って、後宮に行くつもりなのか』
『ふふ!』
絞り出すようにそう口にしたノアに、クラウディアは上機嫌の笑顔で『よく出来ました』を送った。
『もちろんよ。後宮に入るのはノアで遊ぶためだけではないの』
『……』
『まあ、疑いの視線ね? だけどアシュバルの心理として、大切な宝を隠す場所には慎重になるはず』
ノアをつついて遊んでいた指で、今度はふたつ数を数える。
『ひとつはアシュバルの自室、自分の目がよく届く場所ね。けれども賊が入ったときも、最も狙われるのは王の部屋だわ』
『仰る通りです。結界を張っていても、相手の力によっては破られま……』
『ノーア?』
『……破られるものだ。一方で後宮は常に出入りする訳ではないものの、王の自室と同じように強固な守りがある……』
『その通りです、陛下。陛下のお部屋周りよりも人目が多く、盗みの難しさがあるからこそ、宝をそこに隠そうという心理になるお方も多いはずですわ』
クラウディアはそこからアシュバルと落ち合うまで、ずっとその調子で『王さまと寵妃の練習』を続けた。
そうして王のお気に入りとして後宮に入り、女性たちのとんでもない視線を浴びながらも、構わずに悠々自適の生活を送っているのだ。
(この後宮に出入りできるのは、アシュバルだけ。外からの進入も阻まれて、中にいる女たちも出ることが出来ない。結界はなかなか強固だわ)
さぞかし腕のいい魔術師が、後宮の結界を張ったのだろう。クラウディアは水浴び場から立ち上がると、ううんと伸びをした。
クラウディアに割り当てられたのは、後宮の中で最も目立つふたつの建物の片割れ、妃が不在のまま空いていた西の宮だった。
(向かい合っている東宮は、アシュバルの婚約者が住んでいるのだったわね。どうやらここ数日の『挨拶』は、その婚約者を応援する子たちからのものに見えるけれど)
クラウディアは眩しい陽光を手で遮る。五本の指に輝く指輪は、ノアが作ったものだった。
『この五つの指輪は、それぞれ俺の魔力を込めた魔法道具です。アクアマリンは暑さを和らげ、氷を生み出す魔法。ルビーは砂漠の寒い夜に、御身が凍えずに済むように……これがあれば姫殿下の魔力を消費せずとも、快適にお過ごしいただけるはずですので』
それぞれの指に指輪を嵌めてもらいながら、数日前のクラウディアは思わず笑ってしまったのである。
『ふふ、心配性の従僕ね。私自身でどうにか出来るのに』
『後宮にいらっしゃるあいだ、俺が常にお傍にいる訳にも参りません。お守り出来ない分、少しでもご不便が無いように過ごしていただかなくては』
その言い分があまりにも可愛かったので、敬語や姫殿下呼びはそのときだけ許した。
この指輪のお陰で、クラウディアは魔力使用による眠気を覚えることもなく、熱砂の後宮を楽しく過ごしているのだ。




