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128 みなそこに沈む




 空を切る凄まじい音の中、ジークハルトが咄嗟に身をかわす。ノアはそのまま追撃を緩めず、すぐさま剣先を翻した。


「っ、はは……!」

「…………」


 ノアとジークハルトの剣同士が、再びぶつかり合って剣戟の音を散らす。ノアの剣捌きを目の当たりにしたジークハルトは、僅かに高揚したような声を上げた。


「魔法だけでなく、剣術もこの腕前か! 我が従兄弟ながら、とんでもないな……!!」

「……」

「フィオリーナ、ラウレッタ!」


 ジークハルトが名を呼ぶと、フィオリーナが肩を跳ねさせる。ノアと剣を交えながら、ジークハルトは彼女たちに言った。


「君たちの歌を聞かせてくれ。かつて僕たちが教えた通りに、さあ」

「……ルーカス」

「その歌は必ず君たちの願いを叶える。それを実現させる力が、その手にあるのだから」


 クラウディアは僅かに目を細める。ここで疑問をはっきりさせるために、もう少しやるべきことがありそうだ。


「分かりました、ルーカス……!」


 フィオリーナが駆け出したのは、礼拝堂の奥にいる妹の元だ。クラウディアはフィオリーナを追うために、制服のローブを翻す。


「ノア。少し時間を稼いでくれる?」

「仰せの通りに」

「いい子」


 クラウディアとノアのやりとりに、ジークハルトが嘲笑を浮かべた。


「なんのやりとりかは知らないが、妬けてしまうな」

「……好きに吠えていろ」

「!」


 低い声音で言い放ったノアが、ジークハルトの剣を弾き返す。

 ノアは自慢の従僕だ。クラウディアの命令を必ず守ると知っているから、クラウディアは振り返らなかった。


 それよりも今は、目の前の姉妹だ。


「お姉さま、離して、ください……!」


 フィオリーナに強く肩を掴まれて、ラウレッタが身を捩る。けれどもフィオリーナはそれに構わず、ラウレッタに言い募った。


「早く歌を、歌いませんと」


 その声は弱々しくて、震えている。


「讃美歌を歌いましょう、ラウレッタ。私たちが一緒に歌えばいつもの通り、みんなが言いなりになってくれます」

「っ、お姉さま!」

「そうすれば、クラウディアちゃんもずっと私たちのお友達でいてくれるはず……。アビアノイア国のお姫さまと親しくなれば、お父さまも私たちを無碍にはしません。閉じ込めません……!」


 クラウディアを招いていた目的を聞き、ノアが不快そうに眉根を寄せる。フィオリーナは俯きながら、自分に言い聞かせるように独白を零すのだ。


「誰も私たちに逆らいません。人も、船も、海もみんな」

「お姉さま、やめて……!!」

「こちらに来て、私たちの物になってと招けば、何があっても従ってくれます。だって」


 フィオリーナは静かに顔を上げると、ぽつりと呟く。


「私たちはお母さまの仰った通り、お姫さまなのだもの……!」

「――――!」


 その瞬間、礼拝堂の床が歪んで形を変えた。


 赤い絨毯の敷かれた大理石に、クラウディアはどぷんと沈み込む。

 見渡せば辺りは青一色で、足元を魚の群れが泳いだ。礼拝堂にいたはずのクラウディアの体は、海中に投げ出されているのだ。


(……ふうん?)


 とても興味深い状況に、思わず笑みがこぼれてしまう。クラウディアの髪やスカートは広がり、まるでぷかぷか浮いているかのようだ。


(けれど、呼吸は出来ているわ)


 辺りは広大な空間だが、青く透き通ったその水に温度は無い。


(海水は本物ではなく、私にすら見えてしまうほどの高度な幻覚。……一年前に起きたラウレッタの魔力暴走も、やっぱり結界を割ったのではなく、海水の幻覚を生んだのね)


 それについても想像はしていた。

 転入の初日、水槽のようになったラウレッタとクラウディアの部屋に満ちていたのも、実際は水ではなかったのだ。


(お部屋に満ちていた水も幻覚だったもの。魔法を解いて眠る段になっても、ベッドやシーツは濡れていなくて、片付けもせずに眠ることが出来たわ)


 そんなことが可能だったのは、あれが本当の水ではなく、幻覚によるものだったからだ。


(ラウレッタが扱う高度な幻覚。つまりは精神操作の魔法。とはいえ)


 ふわふわと広がるスカートを押さえ、そのまま辺りを見回した。


(この空間は本物だわ。学院の地面、つまりは海底を別の場所に繋げている。幻覚の水で満たしているのは、この空間にある重力の不安定さを誤魔化すため? ……いいえ)


 遥か水底に目を向けて、クラウディアは目を眇める。


(隠すためだわ。万が一、この空間に誰かが入り込んで来たときに、そこに沈めたものを見付けられないように――……)


 クラウディアが考えたその瞬間、足首を誰かに引っ張られた。


「!」

『クラウディアちゃんを、引き止めて下さい』


 反響するようなその声は、どうやらフィオリーナのもののようだ。


『ルーカスが学院を出ていくなら。クラウディアちゃんに求婚すると言うのであれば。……クラウディアちゃんが外に出られなければ、ルーカスは出て行かないかもしれません。あるいは、結婚などしないかもしれません……!!』


 くすくすと嬉しそうな笑い声が響く。クラウディアの足を掴むのは、海底から伸びてくる無数の手だ。

 その手の多くは船乗りだった。先日礼拝堂で見たのと同じ、幽霊のように空な顔をしている。


 彼らはフィオリーナに操られるまま、クラウディアを引き摺り込もうとしているのだ。


(彼らはきっと、船と共に招かれた乗員だわ)


 泥に足を取られたような感覚のまま、クラウディアはゆっくりと沈んでゆく。

 海底で沈黙しているたくさんの船こそ、『呪い』によって引き摺り込まれた船なのだろう。


『引き留めて下さい。クラウディアちゃんを。お父さまの手紙を乗せているはずの船を……!!』


 強張って鋭い金切り声が、幻覚の海に響き渡った。


『いいえ、お手紙などではありませんね……!! きっと船にはお父さまが乗っているのです。私たちを迎えにいらした、我が国の偉大なる国王陛下が!!』

「……」

『だからねえ、お願い、船を留めて……!!』


 呪いはきっと、この言葉に共鳴しているのだ。


(……呪いに繋がる強い願いは、父親からの迎えを望むもの……)


 この幻覚を疑えなくなり、ここが水の中だと錯覚した瞬間、騙された体は呼吸が出来なくなるだろう。そんな風に考えながら、クラウディアは上を見上げた。


『それが出来ないというのならば、せめて私から去らないで』


 登っていく銀色の小さな泡が、くらげのように美しい。


『行かないでルーカス。学院に転入する前から助けて下さった、あなたが居ないと耐えられません……!! ちゃんと助言を守りました。声を重ねる魔法の秘密を誰にも知られないよう、双子ではないように演じました……!!』

「…………」

『魔法が誤って発動されないよう、ラウレッタの傍には近付きませんでした。それが不自然でないように、ラウレッタに落ちこぼれのふりまでさせました。全部あなたの決めた通りに出来たでしょう……!?』


 悲しみを引き絞るかのような声が、やがてこう叫ぶ。


『もらった指輪も大切にしています。……願えば叶うと教えてくれたのは、あなただったのに……!!』

「……」


 それを聞き、クラウディアはゆっくりと目を閉じた。


(これでもう、十分)


 そして目を開くと、クラウディアを引き摺り込もうとする船乗りたちに告げる。


「ノアのところに帰るわ。離してくれるかしら」


 そう告げると、彼らの手がぴたりと止まる。その気配を察知したのか、フィオリーナの声がクラウディアに告げた。


『彼らに命じているのですか? ……無駄なことです。その空間で過ごしているのは、私たちの歌を聞いた聴衆ばかり。つまりは私たちの臣下なのですから……!!』

「……」

『臣下は主君に従います。ですからそこにいる人々は、私の命令に逆らいません……!』


 ここにいる船乗りたちはみんな、呪いに巻き込まれただけだ。ただ手紙を運ぶ船にいて、フィオリーナに引き摺り込まれてしまった。


「先輩ったら。……そういう人たちのことを、臣下などと呼ぶものではないのですよ?」


 クラウディアはくすっと微笑んで言う。


「忠誠心というものは、臣下が自ら望んで差し出してくれるものでないと意味はありません。意思のない従属はただの支配であり、そこに価値などひとつもないのです」

『っ、そのようなことは……!!』

「それに」


 クラウディアはそっと俯くと、足元の船乗りたちに手を翳す。


「強制的に従わせる『支配』ですらも、あなたのそれでは稚拙だわ」

『――!?』


 次の瞬間、クラウディアが放ったその魔法は、偽物の海底を弾き飛ばした。


「きゃあああっ!!」

「お姉さま!!」


 その衝撃が耐え難かったのか、フィオリーナが両耳を塞いでしゃがみこむ。


「っ、うう……」


 礼拝堂の会衆席には、先ほどまで海の底にいた大勢の船乗りたちが突っ伏し、それぞれに呻き声を上げていた。

 船乗りたちは誰もが気を失っていた。けれどもその顔色には血の気があり、先ほどまでの虚さは消えている。


「そんな……。私とラウレッタの、大切な魔法が……!」

「船を引き摺り込んだその力は、魔法ではなく呪いと言うの」


 クラウディアが彼女たちの元に踏み出すと、フィオリーナの肩がびくりと跳ねた。


「非道な力よ。そして、あなたたちにその指輪を与えたのは――……」


 クラウディアは真っ直ぐに、かつての弟子の子孫を見据える。




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