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125 歌姫の面差し

【4章】





「!」


 耳の奥に強い衝撃を感じたのは、クラウディアがノアと教室を出ようとした放課後、もうすぐ満月の夜を迎えようという夕刻のことだった。


「姫殿下。これは……」

「――――……」


 咄嗟にノアに庇われながら、廊下の窓を見上げる。

 結界の外では、いつもなら優雅に海藻を啄んでいるはずの魚たちが、大急ぎで遠ざかっていくところだった。


「きゃああっ!!」


 廊下の向こうで叫び声が聞こえ、生徒たちがばたばたと倒れてゆく。

 耳鳴りのような高い音が鼓膜を刺し、針でも押し込まれたかのようだ。ノアは片手で耳を塞ぎ、顔を顰めつつも、クラウディアとノアの周りに結界を張った。


「ありがとう、ノア」

「呪いが発動されたようです。想定よりも早い」

「もう。あれほど満月の夜にこだわっていた歌姫さまなのに、気まぐれね」


 クラウディアたちの周囲には、無事に立っている生徒は居ない。透明で分厚い結界が、音に共鳴してびりびりと震えている。

 結界のその振動はみるみるうちに大きくなり、地響きのような音を立て始めた。


 みんな気絶をしているが、意識があれば悲鳴の渦だっただろう。結界はどうやら外にある、何か巨大なものを引き摺り込もうとしているようだった。


 たとえば大きな船のような、そんな塊を。


「このままでは結界が砕け散ります。俺が外に――……」

「平気よ、ノア」


 従僕の行動を言葉で制し、クラウディアは微笑む。


「想定より少し早かったけれど、当然対処はしているもの。……我が国が誇る筆頭魔術師であり、この学院の臨時教師がね」

「…………」


 クラウディアが言い切った瞬間に、結界が強い光を帯びた。

 その瞬間にぴたりと振動が止まる。脆くなっていた建物が、内側からしっかり補強されたかのような静けさだ。


「ふふっ。さすがはカールハインツ先生だわ、頼もしい」

「恐らく今頃は職員室で、頭を抱えていらっしゃると思いますが……」


 ノアは僅かに同情した声で言いつつも、クラウディアを見遣る。


「呪いの主の居場所は、探るまでもありませんね?」

「ええ。恐らくだけれど、もうすぐ……」


 クラウディアが辺りを見回したとき、倒れていた生徒たちがおもむろに起き上がった。


 けれどもそれは、意識を取り戻した訳ではない。

 女子生徒も男子生徒もみんな床に跪き、とある方角に向かって頭を垂れている。


 その姿はやはり、主君に忠誠を捧げる臣下のようだった。


「……礼拝堂の方角ですね」

「ノア。大人の姿になる魔法を掛けてくれるかしら?」


 先日何者かによって強制転移された際、クラウディアの魔法が解除された経緯がある。そのためクラウディア自身が魔法を使うのではなく、ノアの魔法で姿を変えた。


 同じく大人の姿になったノアが、クラウディアに手を差し出す。


「転移します。お手を」

「ええ。行きましょう」


 ノアとしっかり指を繋いで、クラウディアは目を閉じた。

 結界の外では、生き物たちのいなくなった深海の青色が、少しずつ夜の黒に染まり始めていた。




***




 礼拝堂の前に降り立つと、スカートの裾がふわりと翻った。

 ミルクティー色の髪を手ではらったクラウディアは、後ろのノアに告げる。


「くだんの魔力への警戒をお願い」

「お命じになるままに。……扉を開けます」


 押し開かれた扉の中から、眩い光が溢れ出した。


 中からは歌が聞こえている。

 その歌声は、先日この礼拝堂で聞いたのとも同じ声であり、お茶を淹れながら聴いていたフィオリーナの歌声とも同じものだ。


 そして礼拝堂の最奥には、先日同様こちらに背を向けて、ひとりの女性が歌っていた。


「改めまして、こんばんは」

「――――……」


 彼女はこちらを向く気配が無い。だからクラウディアは微笑んだまま、赤い絨毯の敷かれた道を歩いてゆく。


「今日は聴衆が居ないのね。独り占めしたいほどの歌声だから、他に誰もいなくて嬉しいわ」

「…………」

「あなたのお歌はとても素敵。――先輩」


 クラウディアが柔らかくそう告げると、彼女の歌声が静かに止んだ。


 その女性の身長は、大人の姿をしたクラウディアとほとんど変わらない。

 すらりと長い手足は華奢だが、大人の女性らしい曲線もしっかり描かれている。後ろ姿からもおおよそ推測できる通り、彼女の年齢は十八歳で間違いないだろう。


 女性がゆっくりと振り返る。

 波のような紫色の髪が、その動きに合わせてふわりと揺れた。重たげな長い睫毛に縁取られた瞳は、茫洋とした光を帯びている。


 そこに立っていたのは想像通り、フィオリーナの顔をした少女だ。


「クラウディア……ちゃん」

「大人の姿をした私のことを、先輩はそんな風に呼んでくれるの?」


 クラウディアはくすっと笑った。だが、対峙する彼女の表情は動かない。


「たとえ同一人物の顔であっても、大人の顔と子供の顔では、案外別人に見えるもの。私の父が幼かった頃の肖像画を見ても、父さま本人だって結び付かなかったことがあるわ」

「……」

「大人の姿をした私を見て、普通はすぐに『十歳の王女クラウディア』だとは気が付かないわ。この時代には外見の年齢を操作する魔法が伝わっていないのだから、それは尚更」


 だからこそクラウディアとノアは、簡単な潜入の際に変装するべく、大人になる魔法を重宝する。


「けれど先輩は、ちゃんと私だって気付いてくれたわね?」

「……」


 クラウディアが首を傾げると、さらさらしたミルクティー色の髪が溢れてゆく。


「気付くはずだわ。だって先輩たちにとっては、年齢を操作する魔法も珍しくない」

「…………」

「そして外見の年齢が変われば、たとえ『全く同じ顔であろうとも、印象が変わってよく似た別人の顔に見える』ことだって知っていた」


 礼拝堂の入り口では、クラウディアの背中をノアが見守っている。

 クラウディアはその視線を受けながらも、正面に立っている、十八歳ほどの女性を見据えた。


「あなたは十一歳の二年生じゃない。十八歳であるフィオリーナ先輩の、双子の妹」


 そう告げて、歌を歌った少女に問い掛ける。


「そうでしょう? ――ラウレッタ先輩」

「…………」


 静かに目を細めた顔立ちに、クラウディアの知っているラウレッタのあどけなさは無い。

 ラウレッタは、姉であるフィオリーナとまったく同じその顔で、クラウディアのことを見詰めている。





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