124 海が震える
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八月も終わりに近付いて、今夜は待ちに待った満月の日だ。放課後、フィオリーナは廊下を歩きながら、浮き足立つのを我慢出来なかった。
(だって、ずっとこの日を待っていましたから)
いつもは沢山のお友達と一緒に歩いているが、今日はひとりで学院長室の方へと向かう。
途中の廊下で出会う生徒たちに手を振りつつも、柔らかな歌を口ずさんでいた。
歌はフィオリーナの宝物だ。子供の頃、母はフィオリーナとラウレッタの頬を撫でながら、こんな風に微笑んでくれていた。
『いつもそんな風に歌っていてね。私に似た歌声はいつか、お父さまがふたりを迎えに来るときの目印になるのですよ』
『お父さまが、私とラウレッタを……?』
『きっとまた満月の日に、あの日のような美しい船に乗って……だからお願い。歌えなくなったお母さまの代わりに、歌い続けていてほしいの』
『はい、お母さま……!!』
母の言っていたことは本当で、数年後にフィオリーナたちの元には迎えがきた。
真新しい帆を張った美しい船は、小さな島に隠れていたフィオリーナたちを乗せてぐんぐん進むと、大きな街に連れ出してくれたのだ。
あの日もやはり、満月だった。昼間の青空に浮かぶ白い月が、向こうに見える城の尖塔に重なっていたのを覚えている。
『あれが私たちの、本当のおうちなのですか?』
フィオリーナは目を輝かせた。亡くなった母が言っていた通り、母に似た歌声を響かせていれば、父が迎えに来てくれるのだ。
そして、お姫さまのような暮らしが待っている。
(そのはず、でしたのに)
フィオリーナたちはすぐに命じられ、海の底にある学院に入学させられることになった。
『宰相閣下、教えて下さい。いつか、いつかお父さまが迎えに来てくださるのですよね?』
『ええ。その通りですよ、フォルトゥナータさま』
本当の名前として付けられていた『フォルトゥナータ』は、いつまで経っても馴染まないままだ。
フィオリーナにとっては、母の呼んでくれていた『フィオリーナ』の名前の方が、自分のものとしての実感があった。
それはきっと、リオネイラと名付けられていた妹のラウレッタにとっても同様だっただろう。
『……学院に入学致します。ですが、いくつかお願いを。月に一度だけ、満月の日には、お父さまからのお手紙をいただきたいのです』
『もちろん陛下にお伝えいたしましょう。陛下はご多忙ですので、必ずやというのは難しいかもしれませんが、陛下は愛娘であらせられるおふたりの為に力を尽くされることでしょう』
『ありがとう、ございます。……それから、妹のラウレッタ……いいえ、リオネイラのことで……』
あれから時が経ち、フィオリーナにとっては今年が卒業の年になる。
(満月の今日は、四年前にお母さまが亡くなった日でもあります)
母がいなくなった日の心細さを思い出すと、今でもずきりと胸が痛んだ。
(だからこそ今日のお手紙には、きっとこんな風に書いてあるはず。『長い間遠ざけていてすまなかった、父がふたりを迎えに行くよ』と――……)
学院に宛てた手紙や荷物は、大きな船に乗せられて、学院の真上に位置する海域へとやってくる。
そこから転移魔法を使い、積荷を学院に飛ばすのだ。父の手紙をのせた船について想像しながら、フィオリーナは学院長室の前で立ち止まる。
この学院に転移される荷物はすべて、一度学院長室に運ばれることになっていた。
中身を読まれるということはないが、荷物や手紙に紛れて妙なものが混ざり込んでいないか、学院長の魔法によって調べられるのだ。
「失礼致します。スヴェトラーナ学院長先生」
「あら、フィオリーナさん。こんにちは、どうかなさったの?」
「……?」
そんな風に尋ねられて、フィオリーナは内心で違和感を覚えた。
(どうかなさったの、だなんて。学院長先生ったら、私宛てのお手紙を検分なさっているはずなのですから、それについて教えて下さってもいいはずですのに……)
そんな風に考えながらも、表面上は穏やかな笑みのまま口を開く。
「放課後のお時間にごめんなさい。学院長室の近くまで来たものですから、いつも音楽室を個人練習に使わせていただいているお礼をしたかったのです」
「まあ。そんなことならお気になさらずとも……才能溢れる生徒さんをお預かりしているのですから、それくらいの配慮は当然ですとも。あなたのお父君には、たくさんの寄付金をいただいておりますしね」
「せ、先生。あの」
ぎこちなさを出してしまいながらも、フィオリーナは学院長に尋ねた。
「寄付金といえば、音楽大国カトネイシャ国の王子殿下に先日、学院へいただいた寄付金のお礼状を出しておりまして。もしもお返事が来ているようでしたら、すぐにでもまたお手紙を出さなくてはなりませんが、いかがでしょうか?」
「あら。心配なさらずとも、大丈夫ですよ」
学院長は至極当然のような顔をして、こう答える。
「カトネイシャ国だけでなく。フィオリーナさん宛てのお手紙は、このところは届いていませんから」
「……はい?」
学院長は、一体何を言っているのだろうか。咄嗟にそんなことを考えてしまい、フィオリーナは笑顔のまま聞き返した。
「先生。もう一度よろしいですか?」
「……? ですから、カトネイシャ国からのお手紙は来ていません。他の音楽団体の方々からも特にありませんので、お礼状や返信などに気を配る必要はありませんよ」
「で、では! 他に私宛てのお手紙はいかがでしょう? あの、たとえばお父さ……」
「学院に直近で届いたお手紙は、アビアノイア国の国王陛下が、クラウディア姫殿下に宛てたものだけです」
「…………」
笑顔が取り繕えなくなり、だらんと両手の力が抜けたフィオリーナは、静かな声でこう答えた。
「……クラウディアちゃんには、お父さまからのお手紙が届いたのですね」
「フィオリーナさん?」
「失礼いたしました。学院長先生」
フィオリーナはそれだけ言うと、学院長室を飛び出した。
大人たちの言うことはよく聞いてきた。こんな風に廊下を走るなんて、生まれて初めてのことだ。いけないことだとわかっているのに、止められない。
(何故なのですか? ……どうして、何故、どうして。お父さまは……)
涙が溢れそうになり、それを手の甲で拭おうとした。そのとき誰かにぶつかって、フィオリーナは悲鳴をあげる。
「きゃ……!!」
「フィオリーナ?」
「ルーカス!!」
受け止めてくれた青年の姿に、悲しみが一瞬だけ掻き消された。
「どうしたんだ。ひょっとして、泣いてるのか?」
「あ……私ったら、ごめんなさい」
フィオリーナは慌てて目元を拭う。するとルーカスはやさしい手で、フィオリーナの頭を撫でてくれた。
「よしよし。泣き止め、いい子だから」
「……もう。私は、小さい子供じゃありません」
拗ねた口ぶりでそう言ってしまうが、ルーカスにあやされると安堵した。
ルーカスは、普段みんなの頼れる兄といった振る舞いなのに、時々こうして子供っぽい態度を取ってくる。
けれど、ルーカスの屈託ない笑顔とほんの少しの意地悪は、フィオリーナの胸をときめかせるものだった。
「ルーカス。実は今日、お父さまの手紙が……」
そう告げかけて、フィオリーナは言葉を止める。
「お父君? 君の国の国王陛下が、どうかしたのか」
「ルーカス。その手に持っている書類は、なんですか?」
「ん? ああ」
ルーカスは手にした紙を見下ろして、小さく笑った。
「これは、卒業試験の申請書だ」
「……そつぎょう?」
言っている言葉の意味が分からず、フィオリーナは無表情で瞬きをする。
「僕の単位はもう足りてるからな。これにさえ合格すれば三月を待たず、早期卒業を果たすことが出来る」
「ルーカス。卒業って、一体」
「卒業したら、求婚するつもりなんだ。幼い頃から恋焦がれていた相手に」
フィオリーナとルーカスが出会ったのは、互いに十五歳である三年前だ。
幼い頃からの馴染みではない。ルーカスは嬉しそうにフィオリーナを見て、屈託のない笑みを浮かべた。
「僕の片想いが成就するよう、フィオリーナも応援してくれないか?」
「――――……」
その瞬間、フィオリーナの目の前が真っ暗になる。
へなへなと座り込んだフィオリーナは、小さな声で呟いた。
「……早く船を、引き止めませんと」
「フィオリーナ」
自らの体を抱き締めながら、震えるくちびるで繰り返す。
「お父さまの手紙を載せているはずの船。もしかしたらお父さまが乗っているかもしれない船。船を、留めなきゃ、この海に――……!」
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