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119 緊急事態




 均衡感覚がおかしくなり、周囲の景色が切り替わる。世界が歪む。

 落下したのか浮遊したのか分からない衝撃に、クラウディアはぱちりと瞬きをした。


(転移魔法――……?)


 それを察知した時には既に、クラウディアは礼拝堂ではなく、何処か狭い場所に『飛ばされた』後だった。


「っ、姫殿下」


 頭をぶつけずに済んだのは、ノアの大きな手が抱き込んでくれたからだ。

 大人姿のクラウディアは真っ暗な部屋の中、硬い床らしき場所に横たわっている。そしてクラウディアの体の上には、ものすごく苦い顔をしたノアが、やはり大人姿のまま覆い被さっていた。


 ノアはクラウディアの顔の横に手をつき、クラウディアを見下ろしている。

 外見は大人のままなのに、ノアの髪色は銀から黒へと戻っていた。見ればクラウディア自身の髪も、魔法で変えた紫色ではなく、普段通りのミルクティー色だ。


「ご無事ですか」

「ええ。受け身を取ってくれてありがとう、ノア」


 クラウディアが無事だと分かると、ノアは静かに息を吐く。その後で、クラウディアの頭の下から手を抜いた。


「……姫殿下のお体に覆い被さるなど、一生の不覚です。すぐに退きますので、お待ちくだ……」

「待って」

「!」


 クラウディアは下から手を伸ばし、ノアの口を塞ぐ。

 もう片方の手で人差し指を立て、「しーっ」と合図を送った。するとノアも、向こうから近付いてくる気配に気が付く。


「……」

「誰かがこっちにやって来るわ。ノア、ここが何処だか分かる?」

「………………恐らくは、男子寮にある物置かと」


 ノアは顔を顰めたまま、視線を動かした。


「この雑然とした掃除道具の置き方といい、積み上げられた木箱といい、初日に寝具を取りに来た部屋と同じです。……扉は壊れ掛けており、少しのことですぐ開いてしまう」

「風の通りがあるのを感じるわ。私からは見えないけれど、いまも扉が開いているのね?」

「……」

「おまけにここまで狭くては、少し身じろいだだけで物音が立ってしまいそう。動いては駄目よ、ノア」


 ここが男子寮ということであれば、女子生徒であるクラウディアが見付かったら大騒ぎだ。

 こちらに近付いてくるのはきっと、見回りをしている寮監の足音だろう。クラウディアを押し倒す体勢のまま固まったノアは、物凄く苦い顔で口を開いた。


「……転移魔法を使っては……」

「光ってしまって目立つでしょう? 私たちの姿は見られなくとも、転移で出入りがあったことを勘付かれるのは避けたいわ。ここに飛ばされた時点で見付からなかったのは、幸運だもの」

「……っ」


 クラウディアが間近に見上げると、ノアはぐっと口を噤む。廊下を歩く足音は、まだ少し遠い位置にあるようだ。

 クラウディアは僅かに目を伏せて、そっと呟く。


「他人の転移魔法で強制的に飛ばされるなんて、ノア以外には久し振り」

「……」


 ノアは眉根を寄せたまま、小さな声で言った。


「礼拝堂で歌っていた女は、フィオリーナの姿に酷似していました」

「けれど見たのは後ろ姿だけだわ。声もよく似ていたけれど、どうかしらね」

「我々を転移させたのも、順当に考えるならばあの女です。……しかし」

「ええ、彼女の動きは十分に警戒していたわ。けれど転移魔法を使う素振りも無ければ、詠唱の呪文も聴こえてこなかった」


 もちろん、考えるべきはそれだけではない。


「礼拝堂に居た人々。女性の歌を聞いていた彼らの身なり、あれはきっと……」

「……」


 クラウディアはくったりと身を投げ出し、無防備に横たわって言葉を紡いだ。

 一方で、覆い被さっているノアはそうもいかない。恐らくクラウディアに体重を掛けないよう、狭い空間で苦心しているのだろう。クラウディアは手を伸ばし、ノアの頭を撫でながら告げる。


「その体勢は辛いでしょう。私に体重を掛けて、くっついても良いのよ?」

「姫殿下にそのような不敬を働くことは致しません。絶対に」

「ふふ」


 健気な口ぶりが可愛らしく、同じくらいに頼もしい。そんなノアへの何よりの褒賞は、クラウディアがすべてを預けることだと知っている。

 だからクラウディアは微笑みつつ、心からノアに頼るのだ。


「足音がどんどん近付いてくるわ。私を守ってね、ノア」

「……何に換えても」


 ノアの答えに満足し、クラウディアは目を細めた。けれどもそのとき、近付いてくる足音の小ささに違和感を覚える。


(……これは、子供の足音だわ)


 そのことを、恐らくはノアも察したようだ。


「見回りでは無いわね。男子生徒の誰かが抜け出して、歩いているんだわ」

「姫殿下。この声は」


 聞こえてきたのは、独り言のように漏らされた言葉である。


「――まさか、この時間になって部屋に居ないとは。寮の外にでも抜け出しているんじゃないだろうな……」

(……セドリック先輩……)


 その声には僅かな苛立ちと、焦りのようなものが感じられた。


「くそ。この学院にもあまり長居出来ないというのに、僕は一体何をやっているんだ……!」

「……」

「彼がこの学院に居ることは間違いない。……正体を隠している上、姿を変えているのなら、こちらはあまりにも分が悪いぞ……」


 その言葉は、明らかに誰かを探している人間のものだ。ノアは口を噤み、扉の方を静かに睨み付けている。


(セドリック先輩の言葉を聞き取るには、集音の魔法を使った方が良さそうね)


 そう思い、クラウディアが少しだけ身を起こそうとした、そのときだった。


「!」

「……」


 クラウディアのことを抱き締めるかのように、ノアが体を低くする。

 体重こそ掛けられていないものの、互いの体が触れるほどの距離だ。クラウディアが動かないようにするためか、ノアの手がクラウディアの手首を掴み、床に縫い付ける。


「――――……」


 セドリックが、この物置の前で立ち止まったのが分かった。


 ノアが身構え、僅かに殺気のようなものを滲ませる。

 セドリックが手を伸ばし、ドアノブを握り締めたであろう様子が、扉の軋む音から伝わってきた。


 その直後のことだ。



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