104 知らなくてはならない
この結界を張ったのは、ノアの主君が生まれ変わる前の存在である。
(魔法の使い方としてはよく似ているが、姫さまとはある部分が決定的に違う)
ノアは双眸を閉じたまま、手のひらで結界に触れてゆく。
少しずつ、そこに込められたすべてを感じ取れるように、深い集中力をもって分析を続けた。
(アーデルハイトさまの方が、魔法の使い方が大胆だ。こんなにも巨大で強力な結界を、一瞬で展開させた痕跡がある)
もちろん魔力量だけでいえば、クラウディアだってアーデルハイトと同等のはずだ。
けれども今のクラウディアには、アーデルハイトのような結界を展開することは出来ない。
そんなことをしては体の限界が来て、いつかのように血を零してしまうだろう。あの日のことを思い出すだけで、顔を顰めたくなるほどだ。
(いまの姫さまでは、魔力を一気に消耗する魔法は使えない)
クラウディアはすぐ眠くなり、ノアにくっついて寝息を立て始める。
強い魔法を使ってしまうと、その負荷で命を落とす可能性だって高い。
(それはまだ姫さまが幼く、お身体が耐えられないからだと。……これまでは、そう思っていた)
けれどもこの頃のノアは、僅かな疑念を抱き始めている。
(姫さまの年齢は十歳。今年の十二月になれば、お誕生日を迎えて十一歳になられる。俺が姫さまと出会ったときの年齢を超えていらっしゃるが)
あのときのノアは九歳で、いまのクラウディアよりも年少だ。
(あのときの俺が使えた魔法にも、いまの姫さまは耐えられない。それは本当に、年齢や身体の幼さだけが理由なのか?)
確かにクラウディアは小柄であり、同じ年頃の少女たちよりも幼い外見をしている。
年齢をいくら重ねたところで、体が成長しなければ無意味というだけのことなのかもしれない。
だが、ノアにとっては気掛かりのひとつであり、解決しておきたい疑問でもあった。
(一度、姫さまにも進言したことがあったが)
そのときのクラウディアは、ノアが焼いたホットケーキを前にしながらも、ぷくっと片頬を丸く膨らませた。
『まあ、私の可愛いノアったら! そんなことを言って、身長を伸ばすためにお野菜をたくさん食べさせたいのね』
『いえ、そのような訳ではありませんが』
『ふふ、冗談よ。けれども安心なさい、この体はまだまだすくすく成長中なのだから』
そう言ってフォークを握り締め、誇らしげに胸を張ったのだ。
『身長だって前に測ったときより、なんと二センチも伸びていたの。ほら、すくすくでしょう?』
『……姫殿下がお喜びでいらっしゃるのであれば、それが何よりです』
クラウディアがまったく気にしていない様子を見せたのは、本当に大した問題ではないと考えているからだろうか。
(弱い部分をお持ちであっても、それを明かさないのが姫さまだ。その中でも俺に対しては、他の誰よりも信頼し、打ち明けて下さっている)
クラウディアの従者である以上、それくらいの自負は持ち合わせている。
(俺が出来うる、全てのことを)
結界から知ることの出来る情報は、ひとつも逃したくはなかった。
(アーデルハイトさまの魔法を知ることも、姫さまをお助けすることに繋がるはずだ)
呼吸することを意識しないと、ともすれば忘れてしまいそうだ。ノアは集中を絶やさないようにしながらも、短く息を吐き出した。
(この中に、古代魔法の術式もいくつか組み込まれているな)
五百年前のアーデルハイトが、魔法の考え方に大きな革命を起こす前のものだ。
いまの時代にはほとんど残っていない。だが、クラウディアから教えを受ける中で、ノアも一通りを学んでいる
(こっちは東の大陸のもの。結界の強度を出すために、硬度を高めるのではなくある程度の柔軟性を持たせていらっしゃるのか)
記憶して分析するだけではなく、自分だったらどう使うかにも想像を巡らせた。
夜の静寂の中、結界の向こうからは、洞窟の中で聞く風の音にも似た響きが伝わってくる。
(比較的新しい魔力? これは……)
その魔力に心当たりがあったため、ノアはそこで眉間に皺を寄せた。
(クリンゲイト国の、スチュアート)
あの男が学院を訪れて、結界の増強に手を貸したという話は聞いた。スチュアートとは、クラウディアとノアが二年前に出会い、そのときはずっと自室に閉じ籠っていた王子の名前だ。
アーデルハイト信仰のある国で、スチュアートも『魔女アーデルハイト』に憧憬を寄せていた。
クラウディアがあの国の呪いを解いて以降、部屋から出て国へと尽くしたスチュアートは、結界魔法の才能を活かして各国と関係性を築きつつあるそうだ。
「………………」
ノアは結界から手を離すと、開いた目をむっと眇めた。
スチュアートは恐らく、アーデルハイトの結界を補助するためにやってきたのだろう。苛立ちはするが、スチュアートの才能は本物だ。
スチュアートの魔法を分析するために、改めて結界に触れようとした。
「!」
そのとき不意に視線を感じ、ノアは後ろを振り返る。
「……?」
男子寮の屋上には、常夜灯が揺らいでいた。
その光に照らされて、ほんの僅かに人影が見える。
(あれは……)
ここからは、その姿などは窺えない。
その顔立ちや表情はおろか、身長を含めた体格すら曖昧なほどだ。けれど恐らくその背丈は、いまのノアよりも僅かに低い程度ではないだろうか。
(俺よりも少し年下の、子供?)
屋上の人影は、ノアの方を真っ直ぐに見据えているように感じた。
ノアも視線を逸らす気になれず、目を眇めて人影の方を見据える。そうしていたのは数秒ほどで、人影はすぐに屋上から立ち去った。
「……」
たまたま屋上に誰かが居て、お互いの存在に気が付いただけだ。
その可能性が高いと分かっているのに、ノアは何処となく予感めいたものを抱き、クラウディアから教わった名前を口にしていた。
「……ジークハルト……」
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