101 水槽の女の子
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生徒たちが居住する三つの棟は、学院の南側にある森の中に建てられている。
その森の中央に存在するのは、食堂棟と呼ばれている建物だ。
この棟には食堂以外にも、談話室や自習室、遊戯室といった共用の空間が数多くあった。夕食後の時間になると、半数ほどの生徒たちがいずれかの部屋に集まって、友人たちとのお喋りや遊びに夢中になるそうだ。
食堂棟の東側には男子寮があり、西側には女子寮がある。
それぞれ食堂棟から歩いて数分ほどであり、寮同士も距離は離れていないのだが、結界によって異性の寮には近付けない仕組みになっていた。
「ノアと過ごしたかったけれど、ラウレッタ先輩は寮に戻っているようだわ。私も調査を進めるために、今日はお部屋に戻るわね」
「………………はい。姫殿下」
ノアは重苦しい返事のあと、真剣な顔で跪いた。
「万が一何か危険なことがあれば、すぐに俺をお呼び下さい。必ずお助けしに参りますから」
「もう。大丈夫だから、何かあっても結界を壊しちゃ駄目よ?」
黒髪をよしよしと撫でたあと、結界の目前まで見送りに来たノアに手を振る。ノアが本当の犬だったら、きっと耳と尻尾が萎れていたはずだ。
(私の可愛いワンちゃんの為にも、早く解決しないとね)
三階の突き当たりにある扉の前で、クラウディアは立ち止まる。
先ほど荷解きを終えるまで、この部屋に同室者は帰ってこなかった。けれどもいまは、扉の向こうに人の気配を感じる。
クラウディアは小さな手を伸ばし、扉をこんこんとノックした。
返事は無い。
重厚な造りのドアノブを掴んで回せば、僅かに軋んだ音を立てて開く。
「!」
クラウディアの目の前を、一匹の魚が横切った。
その一匹だけではない。二段ベッドの置かれた寮の室内は、透明な魔力に満ちている。
その魔力の中をたくさんの魚の群れが、互いを追い掛けながら泳ぎ回っていた。
まるで本物の水中のようだが、ここは紛れもなく寮の部屋だ。
天井を見上げれば、ピンク色をしたクラゲがゆらゆらと揺蕩い、クラウディアのことを見下ろしているみたいだった。
クラウディアの正面、壁際に据えられた窓の下には、紫の髪を持つ少女が座り込んでいた。
「…………」
ふわふわと広がった長い髪に、魔力で作られた魚たちが潜り込んで遊ぶ。
少女の瞳はぼんやりしていて、感情がほとんど伺えない。
学年は二年生ということなので、年齢はいまのクラウディアよりひとつ歳上となる。
けれども幼く見える彼女は、小さなくちびるをきゅっと結び、静かにクラウディアのことを見据えていた。
フィオリーナの妹であり、呪いの主が疑われる少女ラウレッタは、寮の一室を擬似水槽に仕立て上げたのだ。
「わあ……っ」
クラウディアは瞳を輝かせ、部屋の中に飛び込んで声を上げた。
「すごいすごい!! お魚たくさん、これなあに!?」
「…………」
ラウレッタはむっとくちびるを曲げると、人差し指で扉を指差す。
クラウディアは後ろを振り返り、はっとしてラウレッタに謝った。
「ごめんなさい、扉を閉め忘れちゃいました! でも、その前に初めましてラウレッタ先輩! クラウディア・ナターリエ・ブライトクロイツ、一年生です!」
スカートの裾をドレスのようにして摘み、クラウディアは丁寧な礼をした。けれどもラウレッタは声を発さず、ふるふると首を横に振る。
「……」
「はい! 急いで閉めますね!」
クラウディアが扉を閉めたあと、ラウレッタはますます顔を顰めた。それに気付かないふりをして、部屋の中を泳ぐ魚へと手を伸ばす。
「お魚さんも、こんばんは! ご飯の前に荷物を置きに来たときは、普通のお部屋と変わらなかったのに。ラウレッタ先輩の魔法ですよね? すてき!」
「…………」
迷惑そうな顔をしたラウレッタは、一言も発することはない。つい先ほど食堂では、男子生徒たちのこんな噂を聞いていた。
『うちの弟が同じクラスなんだけど、あの子の声を聞いたことが無いらしい。授業で指されても何も答えず、教師たちも大層困ってるんだと』
クラウディアは、いまの時点でラウレッタからの返事を求めるつもりはない。
まずは今後の調査のために、踏むべき段階がいくつかあった。
(本当に、見事な魔法だわ)
この部屋に満たされた魔法を感じ取りながら、クラウディアはそっと目を細める。
小さな手を伸ばして触れた魚は、クラウディアの指先をつんっと突いた。それがくすぐったくて面白く、部屋中をぐるりと見渡してみる。
(緻密に計算されているというよりも、自由な発想と表現力で組み上げられたものね。同じ魔法を使ってみようとしても、彼女自身ですら二度と再現できないのではないかしら)
自由に過ごすクラウディアを前に、顰めっ面のラウレッタはむにゅむにゅとくちびるを動かした。
恐らくはごくごく小さな声で、クラウディアにも聞こえない詠唱を紡いだのだろう。
「――――……」
「わあ!」
素直に驚いたふりをして、クラウディアは目を丸くする。
魔法に反応した無数の魚が、群れを成してクラウディアに襲い掛かったのだ。
水流のような魔力の動きが渦を巻き、クラウディアの髪やスカートをはためかせる。クラウディアを威嚇するようなその動きは、明らかな拒絶だった。
(荒れ狂う海流や波のような魔法。魚の形をしているだけで、これは立派な水魔法だわ。彼女がその気になれば簡単に、私に魔力の塊がぶつかってくる……)
こちらを見ているラウレッタが、くちびるの動きだけで紡いだ。
『――出ていって』
魚たちの帯びる魔力が、どんどん強くなってゆく。
『あっちに行って。私に構わないで。どうせあなたも私を怖がって、ひどいことを言うもの』
(声には出していないはずなのに、切実さが伝わってくるわ)
『みんないじわる。みんなきらい。みんな……』
(残念ね。誰ひとり、この子のことを見ていないだなんて)
魚たちの群れを見詰めながら、クラウディアは教師たちの判断を嘆く。
(こんな魔力の持ち主を、どうして初級クラスに入れてしまったのかしら)
「……!?」
クラウディアが手を翳したその瞬間、ラウレッタは大きく目を見開いた。




