034-2-15_マリーナの気持ち
昨日、ダニールは試験に無事合格することができて、晴れて男爵家の料理人見習いになった。料理の腕前より、彼の人柄が評価されたみたいだ。
料理長も粋だよね。ダニールは誠実な男だし、この世界で初めての友達だから僕も嬉しい。
彼は、彼の地元の街マラケスから、奴隷となった初恋の相手、マリーナを取り戻すために、彼女を追いかけて、ここまでやって来た。マリーナは、夫に捏造された浮気の咎で奴隷商に売られ、僕と同じ荷馬車で、奴隷市場まで運ばれた後、ボズウィック男爵家に買われて、この館に連れてこられている。とは言え、ボズウィック男爵は寛大な人物で、買った奴隷は、皆、解放して、使用人として扱っているのだ。彼女も、今はメイドの見習いだ。そして、ダニールも料理人見習いになることができた。
つまり、結果オーライ。
ダニールも、ほっとしていたし、自分の気持ちに、一区切り着いたみたいだ。それで、彼は、奴隷市場以来、会えていない彼女に会いに行きたくて、僕に声をかけて来たという訳だ。
本当は、二人っきりで話したいんじゃないの? 僕は出汁に使われたのかもね。まぁ、マリーナの事は、気になってたから、丁度よかったんだけと。僕からメイドリーダーのアリサに話せば、許可もしてくれるだろうしね。
早速、アリサに話して許可を取り、今、使用人棟にいるマリーナのところへ向かっている。
それにしても、ダニールにはちょっと驚いた。彼は、自分の店を形に入れてまでして、初恋の彼女を取り戻そうとやってきたのに、まさか、彼女から手を引いて、近くで見守ることを選ぶなんて。彼は、マリーナのことは愛しているけれど、奴隷のままで彼女を取り戻そうとは考えなかったようだ。ダニールは、マリーナの人生がマリーナの手元に戻ったうえで、改めて彼女にプロポーズするつもりだろう。
男前だよ、ホント。
ただ、マリーナがどういう心理状態なのか気になるところだ。普通なら、突然、自由を奪われれば、人生を諦めて、前向きに生きようなどとは、考えられないと思う。それに、彼女は最愛の娘と引き離されて、精神的に不安定になっていたようだし。
荷馬車で見た時は、彼女、辛そうだったもんね。
どれ程、ボズウィック男爵が使用人に対して寛大だったとしても、ここに来るまでの経緯は、彼女が、自ら選択した人生では無いはずで、彼女が、今の状況を悲観していてもおかしくは無い。ダニールは、マリーナが、自分で選べる人生を手に入れたかもしれないって言っていたけれど、本当のところ、彼女がどう思っているのか気になる。
アリサの話では、マリーナの様子はそれほど心配いらないって事みたいだけれど……。
使用人棟は館の裏手にあり、二階建てとなっている。一階が男、二階が女だそうだ。使用人棟に行ってみると、マリーナが一階の共用部屋の窓ふきをしている最中だった。ダニールが彼女に声を掛けると、マリーナが手を止めこちらを向いた。そして、アリサに許可を取って様子を見に来たことを伝えると、彼女は雑巾を桶の淵に置き、作業を中断した。ダニールは、その場にあった椅子を三つ寄せてきて、彼女と僕に差し向けると自分もそれに座った。そして、彼は、彼女に話しかけた。
「どうだい、マリーナ、気分のほうは?」
マリーナがキョトンとした顔をして、「気分?」と聞いた。
ダニールは、ちょっとズレてるね。相変わらず不器用だな。病人の見舞いに来たんじゃないんだからね。そんなんじゃ、彼女は何を聞かれているのか分からないよ。仕方ないな。
「あのさ、マリーナさん。改めて自己紹介したいんだけど、僕の名前はエリア。奴隷商の荷馬車からの付き合いだけど、ダニールからもマリーナさんの話を聞いたんだ。いろいろと大変なことがあったようだけど、どう? 今、気持ちの方は少しくらい落ち着いた?」
マリーナは肌が少し荒れている様だけれど、顔色はそれほど悪くはなさそうだ。
ちゃんと眠れているのかな? ちょっと心配。
しかし、マリーナはにっこりと微笑んで言った。
「ありがとうございます。エリア様。私にお気遣いをいただき申し訳ございません。私のことはマリーナとお呼びください」
あれ? 逆に気遣われちゃったけど、イリハが回復した話を聞いているのかな。
「もしかして、全部知ってるんだね。一昨日からのこと」
マリーナは微笑みを絶やさず返事した。
「もちろんです。お屋敷の先輩方は、エリア様のことを女神様だとおっしゃっておいでです」
マリーナは、そう言ってまた微笑んだ。彼女は、この屋敷に連れてこられた次の日、メイドたちから、彼女たちの生い立ちや奴隷としての辛かった経験など、たくさん話を聞いたらしい。彼女たちの中には、生まれたときから奴隷だった者もいると知った。そして、最後にはみんな泣きながら抱き合ったという。
「そうなんだね……」
みんなの話を聞いたマリーナは、自分よりも年下なのに、辛い経験をしたメイドたちが、明るく振る舞っている事に、涙が止まらなかったそうだ。そして、マリーナ自身には、幸いにも奴隷としての経験は殆どなかったが、彼女たちの気持ちを共有することができて、自分も、人生に向き合う覚悟ができたと言った。
マリーナは話を続ける。
「……ここの皆さまは、運よく男爵様に拾われて、人間として生きる希望を見つけることができたとおっしゃっておられました。しかし、イリハ様のご病気のことで、大恩ある男爵様と奥様に何もして差し上げられないことが、身を切るよりも辛かったともおっしゃっておられました。自分の命に代えて叶うことなら、皆さんはそうしていたことでしょう。エリア様、あなた様はイリハ様だけでなく、皆さまの命をも救われたのでございます。私も、そのようなエリア様のお役に立たせていただけるよう、一生懸命励みたいと思っております」
彼女は、話を全部聞いていたようだ。それにしても、マリーナは落ち込んでいるような雰囲気ではないようだけど、どうなんだろう?
マリーナは、さらに続けて言った。
「エリア様。私のことを救っていただくために、御身を犠牲にしようとしていただいたこと、私には、とても身に余ることでございます。何と感謝を申し上げて良いか、言葉が見つかりません……」
彼女はそう言うと、椅子から降りて目の前に跪き、一度祈りの姿勢を取ってから、僕の両手を握って手の甲にキスをした。マリーナは、少しの間そのままの姿勢でいた。しかし、しばらくすると、肩が震え出し、僕の手の甲に彼女の涙が落ちる。
ん? 泣いているの?
ダニールも彼女の様子が心配のようだ。彼は、マリーナの隣に来て彼女の背中に手を添えてあげた。
「申し訳ございません……少し、子どもの事を思い出してしまって……」
そうだろうね。気をしっかり持ってるように見えても、辛いに決まっている。きっと、マリーナは気を張って過ごしていたんだね。
彼女は、上体を起こし、すぐ横のダニールを見て言った。
「ごめんなさい、ダニー。いろいろと心配をかけちゃって……。でも、もう平気よ。ありがとう、ダニー」
ダニールは彼女の背中を優しく擦ってあげている。ただ、彼は心配そうな顔をしているけれど、何も話そうとしない。
彼女に、掛ける言葉が見つからないんだね。こういう時は、ヒーリング魔法を使うのがいいかもしれない。僕が考えた細胞を活性化させて気分も良くなる魔法だ。お肌もつるつるになるからね、きっと。
マリーナに、ヒーリングしてあげると言って、彼女に手を翳し、魔力を込めた。
「じゃぁ、リラックスしてね」
ヒーリング魔法!
「デア・オラティオ!」
緑色の柔らかな光がマリーナに降り注ぐ。その光の中に、キラキラとひと際明るい光が混じっていて、それらの光がマリーナの身体に浸透していった。彼女は祈りの姿勢で目を閉じ、顔を上げてうっとりとしている。周囲を漂う魔力によって、マリーナの髪が風に吹かれるようにサラサラと靡き、肌に艶が戻ってきた。そして、彼女の頬を一筋の涙が、ツーッと伝う。それを見て、ダニールがゴクリと喉を鳴らした。
マリーナ、綺麗だね。
光が収まり、マリーナが祈りの姿勢を解いて目を開けた。彼女は少し目を赤らめているけれど、スッキリとした表情をしている。
「とても、心が……安心……しました。エリア様、やはり、あなた様は女神様なのですね……」
ダニールが、彼女の身体を支えながら椅子に座らせてあげた。
マリーナの心が完全に解放されたわけではないけどね。でも、これで、彼女は、少しずつ前に進めるよ、きっと。
アリサの話では、マリーナの今後については、しばらく使用人棟の清掃や片づけ、庭や館周りの清掃に専念させた後、徐々に使用人として仕込んでいくとのことらしい。でも、今のマリーナなら大丈夫だ。
じゃぁ、後はダニールに、いや、ダニーだな。彼にまかせて僕は戻るするか。
「じゃぁ、僕は、先に戻るよ」
そう言って、扉に向かった。しかし、その時、突然、背後で大きな音がした。見ると、ダニーが椅子ごとひっくり返っている。
「ど、どうしたのっ?」
びっくりしてマリーナに聞くと、マリーナが、手をギュッと握り、胸に寄せて、驚いた顔をしていた。ダニーは頭を掻きながら、苦笑いして立ち上がろうとしている。
マリーナが言った。
「ご、ごめんなさい、ダニー。わ、私、どうして?」
何があったのかダニーに聞くと、彼がマリーナの手を握ったら、突然、マリーナに突き飛ばされちゃったとお茶目に笑っている。
「ハハハー、これで二度目さ」
えっ!
わ、忘れてた! そう言えば、奴隷市場でマリーナにかけたんだった。男に手を握られたら突き飛ばす魔法。まだ解除してなかったかも……。というか、まだ効果が続いてるんだ?
「ダニー、マリーナの手を力強く握りすぎたんじゃないの?」
そう言ってごまかした。
ごめんね、ダニー。君のためだったんだからね。こっそりと……解除! これでよし。
そして、部屋を後にした。その後、ダニーとマリーナは二人でいろいろと話をしたようだ。
もう、手を繋いでも大丈夫だからね……。
「面白いかも!」
「続きが気になるぞ!」
「この後どうなるのっ……!」
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