死屍を食う男 4
気付くと俺は食堂のようなところにいて、知らない男子たちに囲まれていた。ナーシャはいない。
「安岡も早く食べたらどうだ」
俺に言われているのだとわかるまでに少し時間が必要だった。本当に俺は安岡さんになっているというのだろうか。今年は一人溺死しているのだというのだから、俺がここの生徒になってしまったからといって、恐怖の噂に沿ったところで俺が溺死するようなことにはならないだろう。それ以前にここで死んだからといって、死ぬのはこの安岡さんという生徒なのであって俺には何も起こらないのではないだろうか。それにしたって不安ではある。
腹が減っていたのもあって目の前に会った料理は食べるけれど、味というのはさっぱり入ってこなかった。きっと美味しいものではないだろうから、むしろ俺としては味どころじゃない状態であることで今は助かったかもしれない。こんな状況なら食欲もなくなりそうなところだけれど、食事は無心で出来てまだよかった。
「大丈夫か? 部屋まで連れて行くから、早く寝たらいい」
優しい人がいたもので、一人の男子生徒が俺を俺の部屋まで案内してくれた。本人は案内をしてくれたというのではなくて、俺が様子がおかしいので具合でも悪いのかと思ってそうしてくれたというわけだろう。自分の部屋はどこであるかとはまさか聞けないものだから、そんな友人が安岡さんにいてくれたことに感謝するしかない。
部屋に着くと、ナーシャから聞いて想像していた以上に青白く痩せた男が既にその部屋にはいた。ベッドに座っていた。この男が深谷さんなのだろう。
外はすっかり暗くなっている。時間の把握は出来ていないけれど、気分もよくないものだから今日は寝てしまおう。この異世界から帰る手立てを持っていないからには、俺に出来ることなんて何もないのだから。
ベッドに入って横になっていたはいいものの、ちっとも眠れない。変なことを考えてしまいそうになるのが嫌で、眠ろう眠ろうとばかりしているのに眠れないでいた。いつからか鼾が聞こえてきている。なるほど、眠れないでいるときにこれは腹立たしいものだ。
何度も寝返りを打って、頭の中を空っぽにして目を瞑って、少しずつうとうととしてきた。寝ているのか起きているのか、微妙なくらいの感覚。もうすぐで眠れそうだけど、はっきりとしない意識がまだ働いている。
何かの気配。いつもならば完全に起きた状態でも、目を瞑っていたらわからないような気配を、今は強く感じ取った。冷たい湖の中に落とされたようだ。寒気が体中を駆け抜けて、本能的に俺に息を殺させた。
誰だ。溺れ死んだ生徒の呪いだろうか。それとも、まず生徒を死なせている悪霊が俺のところにも現れたのだろうか。そうでなければ、こんなに一気に体が寒くなるはずがない。冷え始める十月の終わり、だからといって、布団に入っても寒いほどの気温ではない。少し前までは平気だったのだから、気候のせいではない。
心臓の音が煩すぎて、狸寝入りが暴かれてしまうのではないかと不安でならなかった。やがてパチッと音が聞こえて、部屋が明るくなるのを感じた。目を開いて見てみれば、深谷さんがベッドを出てスリッパを履き、部屋を出ていくというところだった。トイレにでも行くのだろう。
せっかく眠れそうだったのに、すっかり目が冴えてしまった。それにしても、さっきの気配はなんだったのだろう。
人の息のようだった。体温を感じたような気がする。でもこの部屋にいるのは俺と深谷さんだけだ。それなら深谷さんがそうしたということになるが、深谷さんは安岡さんに少しの興味を持とうともしないのだとナーシャからは聞いている。そんな彼が安岡さんが眠っているかどうかなんて確認するだろうか。それに、もしそうなら、どうやって深谷さんは電気を付けたのだというのだろう。まして彼は彼のベッドから立ち上がり、スリッパを履いてパタパタと歩いて行った。つまり俺が気配を感じたときに、深谷さんは彼のベッドにいたということだ。
怖がりすぎだ。気になっているから、そんな気がしただけだ。夢だ、幻だ、錯覚だ。そうやってどうにか自分を納得させて、再び眠りに入ろうと努めた。やはりトイレだったのか、深谷さんはすぐに帰ってきて、電気を消した。そしてベッドに入ると、間もなく鼾が聞こえてきた。やはり深谷さんはナーシャの話に聞いていた人物、そのままなのだろう。俺が変になっているのだ。眠ろう。眠ろう。
目を瞑って深呼吸をして、頭の中で羊を数え始めた。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、
羊が五十一匹、羊が五十二匹、
羊が四百匹、羊が四百一匹、羊が四百二匹、
羊が千二百十匹、羊が千二百十一匹、羊が千二百十二匹、
少しだって眠りに入れそうにはなかったが、こうしているだけでも落ち着いた。千二百十二匹目の羊が柵を越えたとき、またも顔の辺りで気配を感じた。違う、今回は湖に沈められているように息も出来ない、だって人間の体温さえも感じてしまっているのだから。
羊が千二百十三匹、羊が千二百十四匹、ゾッとしたのを誤魔化すように俺は羊を数え続けた。睫毛一本動かさず、完全な寝たふりを決め込んだ。
真っ黒だった瞼の裏がパッと真っ白に変わった。何者かがここにいるのは間違えないわけだ。体が緊張で固まり、頭が痛くさえ感じられた。本当は起きていることを知られてはいけない。そう思うほど高まる緊張感に、ますます頭がおかしくなりそうだった。
パッとまた真っ黒に戻った。静かなドアの開閉音が聞こえた。深谷さんが部屋を出ていったのだろうが、そう何度も深夜に出ていく理由があるだろうか。
女子寮もあるのだとしたら、彼女のところにでも向かっているということだろう。深谷さんは俺が共感するようなぼっちだとナーシャは言っていたけれど、それは俺が何度も経験してきた裏切りというもので、実は隠れたリア充なのかもしれない。あんな細くて青白い、いかにも文化部な男子がモテるとは思えないが、物好きな女子だっているだろう。それにしても、隠れて彼女の部屋に通うような生徒には見えなかったが。
じゃあ、他に理由になりそうなことはないか。寝ている中をこっそりと歩き回っているのなら、泥棒というのはどうだろう。持ち物を見るととても貧乏人には見えないけれど、金に困っていないからといって泥棒をしないとは限らない。それに見た目から貧乏を感じさせないがための盗みという可能性だってある。人との接点を持とうとしない人がそういった見栄だけ張るとは思えないけれど、反対に見栄のためにあえて人を避けているというようなことだってありえなくはない。
しかし学校内で盗難事件が多発しているくらいなら問題になるだろうし、そういったことであればナーシャも何か言ってくれるはずだ。それならまたトイレに行ったようなことなのだろうか。腹が痛いのかもしれない。元々腹が弱いのかもしれない。深谷さんはトイレに行っているだけだ、人の体温だってそんなものは感じるはずがない、全て俺の勘違いだ。意識しすぎているのだ。それか、驚かせようとナーシャが何か悪戯をしているのだろう。
眠りやすいようなベッドではないけれど、学校の机であれだけ眠れる俺が目を閉じていてこんなに眠りに入れないようなことがあるものか。もううとうとするところまでもいかなくて、部屋から出るときに眠気も一緒に深谷さんが持って行ってしまったのではないかとすら思えた。こんなに眠れない夜にはゲームをするところだけれど、スマホさえ今は持っていなかった。姿はあのままで、それでも俺に甘えてくれるナーシャのことを忘れないために、いつ帰れるかはわからないが小説の続きでも書こうか。帰ったら投稿して、もう一度俺はランキングに返り咲くのだ。
どうせ眠れないのなら何かをしようと、どうせ何も考えないではいられないのならアイディアでも探してみようかと考えたのだ。けれど、憎いことに、余計なことばかり考えてしまう頭は執筆の気分に俺を持っていてくれないのであった。体を起こして文章を作るには、身体的にも精神的にも俺は疲れていたのだ。たぶん二時間も三時間も経ってから、深谷さんはほとんど音もなくドアを開けて部屋に戻ってきた。俺が起きていたとしても、今ほど神経が研ぎ澄まされていなかったら部屋に入ってきていることに気付かなかったくらいだろう。気にしすぎかもしれないが、トイレに行っていたにしてはなんだか凄惨な空気をまとっているように感じられた。例えば、夜の間に喧嘩でもしていたというような、それか泥棒よりももっとひどい犯罪を犯してきたというような。




