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吾輩は蜘蛛の糸失格料理店  作者: ひなた
微笑 夢野久作
38/41

微笑 2


 愛らしい服の袖で力強く顔を拭ったナーシャは、いきなり立ち上がって美少女にずんずんと迫っていった。顔が見えないからわからないにしても会話の感じからして知り合いっぽいようなところなのだ。もう薄暗いでは誤魔化せないくらいの距離までナーシャは彼女に近付いたものだから、謎が解けてだれだかわかったんじゃないだろうか。もしかしたらナーシャは最初から気付いていたから俯いているふりをしていて、油断させて逃げられないようにここで近くから見ようっていう作戦だったんじゃないか。

 やはり俺には話してくれない作戦があったのだろうと少し悲しくなっていると、なんとナーシャは美少女の目の前までいって頬をビンタしたのである。まさか考えがあったわけではなくて、衝動的に腹が立ったというようなことなのだろうか。ナーシャに限ってそんなことがあるとは思えないのだが、完全にビンタしているんだからそういうこととしか思えない。

「能力でも知識でも魅力でも勝てないから、遂に暴力で戦おうというわけですか。暴力で勝ち取ったヒロインの座なんかに、どんな価値があるというのです? ここで殴り合いの喧嘩をして決着をつけようと考えているわけではないでしょうに」

 どうにも顔は見えないけれど、ナーシャの行動に彼女も驚いているようだった。顔は隠せても驚きは隠せないというわけである。ナーシャは質問に答えることもなく、静かに彼女の頭を両手で掴んで力のままに首を捻った。あの細いナーシャの手に力があるとは思えないけれど、恐ろしいことに、美少女の首はぽきっと折れてしまったのだった。

 血は出ていない。

 あまりの衝撃に思わず飛び出してしまった。怖くなってもう見られなくなるかと思ったけれど、自分でも意外なことに、俺はナーシャの方へと駆け寄ってしまっていたのである。顔が見えないままの美少女の首が地面に転がっている。恐怖は恐怖だがグロいということはなく、人形としか思えなかった。


 落ちた首が動き出して話し出して、ということは起こらない。残った体だけで歩き出すというようなこともない。けれど体は立ったままで、倒れるということもないのであった。ホラーともサスペンスとも違ったジャンルの殺人である。

「完全に遊ばれているわね。察していなくなってくれたようだから、追い払うことはできたようだけれど、これはこれで悔しいものね。私の思惑通りに追い払ったのに、なんかこっちが乗せられたような気分になるわ」

 ナーシャはそれほど感情が豊かなイメージではなかったのだけれど、頭を引っ掻いて物凄く苛々している様子である。泣いたりビンタしたり苛々したり、俺が創ったナーシャとも最初にナーシャから受けた印象とも全然違う。だけどナーシャにいろんな面があるからこそ、キャラブレな気もするようなところがあるからこそ、ナーシャが実在しているということを感じる。いろいろなところがあるから、本当にナーシャがここにいるんだということを感じる。

 でも基本的にナーシャは冷静だから、こうした彼女の変化が心配でならない。感情が豊かになったにしても、笑顔とかだったら俺だって嬉しいけれど、明らかにそういうのじゃないから。もしこれが、包み隠さずナーシャが俺に全てを見せてくれるようになってくれた結果というのだったら、それはそれで嬉しい。

「なんなのよこれ」

 立ち尽くしている美少女の体を蹴り飛ばしては、転がっている頭を踏みつけた。ピュアなばかりがナーシャではないともうわかってはいるけれど、まさかこんなところがあるとは思っていなかったから驚いてしまう。さっきまでのを見ていた上でも、どうにもやはり驚かずにはいられない。


 人形を壊しているだけ。それだとしても怖いは怖いのだけれど、先程まで動いて話していた人形なものだから、ますますナーシャがやっていることが恐ろしくて仕方がない。恐ろしいシーンというのはナーシャに何度も見せられたけれど、遂にナーシャ本人がやるようにしたということなのだろうか。どこまでがナーシャの計算なのだろう。

「表現力の見せ所よ。成長を見せてごらんなさい」

 やはり今回も俺の成長のためにとかそういうので、またわざと怖がらせるようなことをしているのだろうか。それならナーシャの演技は女優クラスだから、この可愛さを世に知られるのは心配でもあるけど才能を生かして女優になるべきだ。もう苛々は収まったのか、そもそも苛々もしていなかったのか、今はすっきりしたような表情をしている。

「腹が立ったのは事実よ。追い払うための手段として咄嗟に別の小説を捻じ込んだのだけれど、その手段にしてでもぼこぼこにできて気分がいいわ。同時にあなたがどのような描写をするかというのにも興味があったのに、余計なことばかり考えてしまっていてそれほど臨場感もなくなってしまったし、とはいえそれほど文章力が向上したわけでもないし。正直がっかりね」

 そうは言うけれど、ナーシャの表情はやっぱりすっきりしているように見える。こういう笑顔の演技なのかもしれないと思わないでもない。でも何にしても落ち着いてくれたのだということは間違いないのではないだろうか。彼女の演技は完璧に実力派美少女女優レベルだから、俺が騙されているというのも大いにあり得るし、気を遣わせて俺が一人で安心というのは嫌だからなんとも言えないけど。


「何も考えていなそうで、私のことを考えてくれているのね。そういうところは、本当に好き」

「な、なにそ、告白っ!?」

「何を今更そんなに動揺しているのよ。あなたが私のことを好きだということも、私があなたのことを好きだということも、出会う前からわかりきっていたことでしょう? そんなことよりも、せっかくここで休んで回復していたのに、あいつを追い出すために無駄に力を使ってしまったわ。ここにいるのは完全に知られてしまっている状況の中で、私たちには徒歩で逃げることしかできないのよ」

「とにかくヤバいってことか。こんなに隠れているのに見つかったということは、どんなに逃げても魔法とかで居場所がわかっちゃうんじゃないか。ヤバいよな」

 たぶんナーシャはヤバいみたいな万能の言葉は好きじゃない気はするけど、この状況ではそれ以外の言葉が出てこなかった。ナーシャだってこれがどういう状況かわかっていないのだろうし、ここではどんな言葉も見つかっていないのではないか。

「私にわかるのはたった一つだけ。中々、ヤバいわね」


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