星1
「ねえ、ナーシャ、どこを目指しているの? もしかして、彼のことを追うつもりなの?」
「いいえ」
たった一言だけ返して、それ以上ナーシャは何も言ってくれようとはしなかった。せっかく異世界体験が出来るのだから、たくさんの異世界に行った方がお得なのかもしれないけれど、それにしたってもう少しくらい長めに滞在したいものだ。異世界に一年くらい住んで、それからまた新しい異世界に転生して、みたいなことならもっと楽しいと思う。それとやっぱり異世界なら俺は特殊能力がほしいし、モンスターと戦ったりギルドで依頼を受け取ったりしたい。
「前にも軽く話したけれど、ここはね、小説の中なの。そしてあなたの夢の中。異世界というような理解とは、また少し違うのよ」
小説の中で、夢の中。何が言われているか、俺にはさっぱりわからなかった。こんなのが現実だとは思えないのだから、そうなったら、夢の中だと言われた方がまだ俺としても受け入れやすい。ナーシャのことを信じているから、ここが現実だとしても俺は信じることが出来る。けれど本当ならば信じられないようなことだ。
「と、というか、ナーシャが異世界だと言ったんじゃなかったっけ」
「そっちの方がわかりやすいと思ったからよ。異世界なんてフィクションか夢かの話でしょう? だから少し違うというだけで、大まかな分類では同じことよ」
異世界なんてフィクションか夢、基本的には作家の妄想だ。そんなことは俺だってわかっているけれど、それでも俺が創り出した妄想はこうして現実に俺の目の前に現れた。たぶん全てが終わってしまったら、この経験を語ったところで夢を見ていたのだと、または嘘吐き呼ばわりされて終わるだけだろう。天才小説家の文章力で俺がこの現実を語ったところで、フィクションになってしまうのだ。
月に照らされた道をナーシャと二人歩いて行く。こんな夢のような時間なら、夢だと言われた方が自然ではあるけれど、こんなにもリアルな夢があるだろうか。涼しい風だと思っていたが、少しずつ寒くなってきた。この感覚を夢だとは思えない。
「夏目漱石とか、芥川龍之介とか、太宰治とか、宮沢賢治とか、それくらい有名な文豪ともなればあなたでも知っているのかしら」
どういう本を書いたのかは知らないけれど、芥川龍之介は聞いたことがある。芥川賞の作家だろう。それにしても、どうしてナーシャはこんなことを聞いたのだろうか。まさかナーシャまでが、俺がパクっているようなことを言い出すはずがないから、そうなったら俺が芥川賞に並ぶ文豪だというような意味だろうか。
「芥川とは言ったにしても、芥川賞作家の話などしていないじゃないの。よくわからない二択を持ち出してくれたところ悪いけれど、どちらでもないわよ。知ってるかどうかを聞いただけ」
そういえば、前もナーシャは同じことを聞いてきたような気がする。その昔の人を知っているかどうかというのに、どうしてナーシャはそんなにこだわるのだろう。
「ああ、太宰ね、前にも言ったわよね。それを覚えてくれていただけでも期待以上よ。そうね、人間失格とか走れメロスとかどう? 読んだことない?」
「あ、走れメロス」
読んだことがあるかどうかは覚えていないが、走れメロスは聞いたことがある。俺はパクり作家ではないから他人の本は読まないし、斬新でオリジナリティのある名作を生み出すために、古臭い小説のことなんて知らない。
「伝統を知らずに斬新さを出せると本気で思ってるの? 本気で思ってるのよね」
完全に馬鹿にした言い方で、ナーシャは可愛らしい目線をこちらに向けてくる。
「可愛らしい目線? まあいいわ。私たちは小説の世界を旅しているのだから、物語の結末を知らない方が純粋な気持ちで楽しめるでしょう。たまには知っていそうな世界で足掻くような経験も見せてあげたかったのだけれど、あまりにも無知で悲しいわ」
自分だけがその世界のバッドエンドを知っていて、それを食い止めるために必死になって戦うというわけか。面白そうだし、これは今までにない小説のアイディアになるんじゃないだろうか。ナーシャのおかげで俺は思い付いたわけだけど、ナーシャを創り出したのは俺だということはやはり俺が天才ということだ。うん、天才。
「今夜の星を見るつもりだったのだけれど、これは夜が明けてしまいそうね。仕方がないからそろそろ寝るとしましょうか」
時間を考えたら寝る時間のはずなのに、不思議なテンションのせいか眠くはなかった。深夜テンションというわけではなくて、やはりカフェにいた彼のせいだ。理由に関してはどう言い表したらいいのかわからない。彼が変人だったから。彼は変人だったけど、それだけでない謎の空気があった。
「あなたが眠くなくても私は眠いのよ。朝になるまで歩き続けるなんて御免だわ。観光地ではないから旅館はちっともないし、あってもこんな時間に受け付けなんてしていないでしょうし、困ったわね」
それならナーシャのことを俺がおんぶしてあげようか? 軽そうだから頭脳派の俺でも持ち上がるだろうし、背中にナーシャがいてくれたら最高でしかない。胸がないのがかえっていい。ナーシャは本当に可愛すぎる最高のロリだ。
「あのさ、心の声を上手く使うの止めてくれる? 盗聴してたらいきなり自分に向けたメッセージが流れてくるって、それとんでもないホラーよ?」
心の声を盗聴される方が十分に怖いし、ナーシャが盗聴しているという意識だというところも怖かった。
「どちらも治安の悪い物語ではない。ただ、この場所がどこだか私にだってわからないものだから、どう判定されるかはわからないのよね。野宿しても大丈夫かしら」
「野宿?」
「ええ、そうよ。私たちは元々この小説の登場人物ではないからなんとも言いがたいのだけれど、先に言っちゃうと、今から目指している場所でも危険な目に遭うような描写はないの。とはいえ野宿なんてして万が一があったら私としても、辛いもの」
言っていることが難しすぎて半分もわからなかったけれど、ナーシャが辛いことは俺も嫌だ。彼女が苦しそうに眉毛をキュッとしたのが俺も苦しかった。眠そうには見えないナーシャだけど、彼女が何か困っているのだということは伝わるし、理由はどうあれナーシャが困っているということが俺にとっては問題なのだ。ナーシャが眠いなら寝かせてあげたいし、それでも野宿は嫌だってナーシャは言っているから、そうなったら俺のおんぶしかないか。
「結局そこに帰ってくるのね。その前に、野宿が嫌だとは言っていないわよ別に。でも、その優しさは好きよ」
好き、好きだなんて、ナーシャ、可愛すぎる。ナーシャに好きと言われてしまったら、やはり俺はナーシャに従うことしか出来ない。




