眉かくしの霊 6
景色をこんなにしっかり見たことなんてなかった。この何もない田舎でなければ外の景色なんて見なかっただろうし、ナーシャと一緒でなければ何もない田舎になんていなかった。こんな綺麗な景色は見たことがないけれど、それを言葉にする方法が俺にはわからなかった。俺は天才だけれど、こんな程度のことも思い浮かばなかった。
「あなた……」
「お待たせ致しました。お風呂のご用意が済みました」
ナーシャが何か言おうとしているとは思ったけれど、そこで呼ばれてしまったため続きはわからなかった。気にならないわけじゃない。しかし気になるとここで思っていることもナーシャが聞こえているとしたら、俺があえて口に出して何を言おうとしていたか聞くことはできない。ナーシャが言わないということは、言いたいとは思っていないということなのだろう。
「優しいんだから。そこまで全部、私に聞こえているとわかっているのに、馬鹿ね」
ふわりと花が舞うような笑顔が雪に咲く儚い一凛の華というようで、あまりにも輝いていたから、これ以上はナーシャのことを見ていられなかった。時々ナーシャは可愛すぎてそういうところがあるから、ずっと見ていたい俺としては困る。
「あれ? 真っ暗じゃん」
すぐに入りに行くとわかっていたはずだし、そのつもりで俺たちに声掛けをしてくれたはずなのに、なぜか更衣室に電気は付いていなかった。いや、薄暗いけど何も見えないわけでもない。小さな灯りがあるようにも見える。電気が見当たらないから仕方がなく諦めて服を脱ごうとすると、風呂の方からちゃぷんと音がした。だれか入っているのだろうか。
「花の香り、女の人かな」
準備が整ってすぐなのだから人が入っているわけがない。それにこんな暗い中で、それでも音はするしこんな冬なのに花の香りがするのだ。正直どうせ見えないから大丈夫な気がしないでもないけど、それでも女の人が入っているところに行くのは不味いだろう。
「もう、お上がりになりまして?」
更衣室を出るとスタッフの声があった。
「いや、あとにします」
「まあ、そんなにお腹が空いたんですの」
「え、お腹も空きましたが、誰かが入っているから」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除かたがた旦那様に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも」
「え?」
まだだれも入っていないというのなら風呂に行きたいところだ。音がしたというのも風か何かだったのだろう。香りも気のせいだったか、それか本当に花が咲いていたのだろう。もしかしたらナーシャから湧き出た香りだったのかもしれない。今すぐ風呂に入りたいわけではないから、食事と言われたら食事が先でというところだけどね。
「湧き出たって、あまりいい気がしない言い方ね」
豪華な食事を終えて今度こそ風呂に行こうとすると、ちょろちょろと水の音が響き出した。足音もする。いろんなところから声がする。スタッフのみなさんも休憩中なのだろうか。
旅館にはいくつか風呂場がある。どうやら俺たちのためだけに用意してくれたらしいその風呂は、まだ電気が薄らとしか付いていなかった。こんなことなら無理に用意してくれなくてもよかったのに。電気が消えた。ちゃぷちゃぷと音が聞こえる。やはりだれかがいるのだろうか。肩をひんやりとした風が撫でたようだ。だれかに触られたような気さえして気持ちが悪い。
「ナーシャ?」
「話をしなくても駄目みたいね。ごめん、行きましょう」
鋭い声でナーシャが告げて、俺の手を引いて歩いていく。部屋に連れ戻されてしまったので、仕方がなく炬燵に入って俺は横になる。ここまでナーシャが連れて来たということは、あのまま風呂に入っていたらやばかったということなのだろう。それにしてもどういうわけなのかわからないもので、最高のサービスだと思っていた旅館にちょっと苛々してきた。




