眉かくしの霊 3
翌朝。目を開けるとナーシャの可愛い顔がすぐ近くにあった。
「うわぁっ!」
「きゃぁっ!」
驚いて俺が悲鳴を上げると、それにつられたのか、その悲鳴に驚いたのかナーシャも悲鳴を上げて俺から離れていった。
「い、いきなり叫ばないでよ。驚くじゃないの」
大きく息を吐き出して、ナーシャはにっこりと世界の何よりも可愛らしい笑顔を向けてくる。こんなにも可愛らしく笑われたら、少しの不満だって何もかも消えてなくなってしまう。
「行きましょ。駅前で車が出ているんだけど、せっかくだから歩いて行きましょうか。二人の時間、邪魔されたくないもの」
車で行くような距離を歩いて行くなんて最悪だけど、ナーシャと二人きりでいたい、ナーシャも俺と二人きりでいたいと思ってくれているんなら仕方ない。俺が免許を持っていないことを悔やむだけだな。ナーシャもこんなに小さいんだから免許を持ってるわけないし、そもそも男として俺が運転したい。
「そういういらないプライドは持っているのね。車とは言っても自動車ではなくて人力車だから、非力なあなたには無理だと思うわ」
「人力車? そんなの浅草とか京都とかでしか走ってないんじゃないの? こんなとこで」
「あら。ちゃんと人力車のことは知っていたようで安心したわ」
ナーシャはどこまで俺を馬鹿にしているのか、それくらいは知っている。そういえば俺のことを非力とかも言っていた。運動部のリア充ゴリラとは違うけど、俺だってナーシャよりは力があるはずだ。
「私と比べてどうするのよ」
溜め息を吐いたナーシャは俺の手を取ってズカズカと歩き出した。温かい小さな手から幸せが広がっていくようだった。可愛すぎて、鼻血を出さなかっただけで俺はVIPだと思う。これもナーシャに聞かれていると思ったら恥ずかしすぎるけど止められるものじゃない。
「え? VIPって?」
本来ならナーシャは俺のことを大好きで俺にメロメロな女の子なんだけど、このナーシャはちょっと素直じゃないところがあるから、素直に喜んでくれはしないだろうなと思っていた。しかし予想外のところに突っかかってきた。VIPって言っているんだから俺が一番偉いってことに決まっている。俺レベルじゃなければここで鼻血を耐えることなんて不可能だったからね、自分で自分を褒めたい。
「サッカーとかでよく言うでしょ。VIP選手とか、俺はあんまりスポーツ見ないけど」
「ああ、一番偉い人、偉い……ねぇ。MVPか何かと間違えてるのかしら。うん、よくある間違いよ。それじゃあ行くわよ、本日のVIP選手さん」
田舎で何もなくて虫とかも飛んでるけど、ナーシャと手を繋ぎながらナーシャと歩くから幸せが勝った。歩いて行くのはほとんど森でしかないような道でも、隣にナーシャがいればお菓子の道くらいメルヘンな気がする。
「あなた、木曾は知らないと言っていたわよね」
石だらけの道に歩き疲れていたところで、また俺を馬鹿にするつもりなのかナーシャは俺が知らないことを言ってくる。
「汽車の中で話したでしょ。東海道中膝栗毛っていう話。そっちに連れてってあげられたらよかったわね」
いろいろ可愛い声で可愛い話をしていた覚えはある。記憶を辿って俺は汽車の中でナーシャが何を言っていたか必死に思い出した。何かを言っていたとは思うんだけど。
「そりゃ何かは言っているでしょうよ」
「あぁっ! あのBL旅行本か。言ってたね。ナーシャ、悪いけど俺は女の子が好きだよ」
「変な解釈で私に変な設定を付けないでちょうだい。でもまあ、思い出してくれたようね。木曾はその二人が旅をした場所の一つなのよ。それと、木曾を知らないということは木曾義仲も知らないかしら」
そのせいで俺に変な何かをさせるようなことなら困るけど、ナーシャならどんな要素があっても可愛いから俺は愛せる。冷静に否定してるけど、そうやって隠すところも可愛らしい。
「本当にあなたって自信だけすごいわよね。それがここにも生かされるとは思わなかったわ。聖地巡礼という言い方をされるのは私としても微妙だけれど、やってることとしては所謂それと変わらないから認めましょう」
ヲタクは恥ずかしいことじゃないのに、それを隠してまでナーシャは俺のために完璧であろうとしてくれているのかもしれない。なんて健気な子なんだ。しかし聖地巡礼はまだ心の中でも言い表してないのにどうしてフライングでナーシャに言われてしまったんだろう。
「物語に出て来た場所や偉人の縁の場所なんてのはね、昔から人気があったものよ。でもある意味では、本当の聖地巡礼もそういうものなのかしらね」
なんの話をしているのかと不思議だったところで、ナーシャは設定の話を入れて来た。いきなりすぎて聞き逃すところだったくらいである。
「設定って、止めなさいよ」
足元を見ていないとすぐに躓いてしまいそうで、そんな足場だからナーシャが俯いてしまっているのかもわからない。
「はぁ。現実のあなたは自意識過剰で馬鹿で努力しないのに高望みするクズだけど、だけど私を生んだのはあなた、私を呼んだのはあなた。今は心の中でもあなたは自信家で自己評価の能力が壊滅的でも、あなたは心のどこかで自分に才能がないことも努力が足りないことも知っている。だからあなたは私に助けを求めたのでしょう?」
何か途轍もなく悪口を言われたような気がするけれど、ナーシャの口調は穏やかだった。
「私はあなたを助けてあげたかった。そうして神様から、あなたを近代小説の世界に案内する力を授かったのよ。あなたはレベルが低いのにプライドが高いから近代小説を読んで勉強するなんてないでしょうし、あなたの実力じゃ読めないでしょう。過保護だとはわかっていても、私はこうしてあげたかったの」
言葉からも声からもナーシャが俺のことを思ってくれているのが伝わってくる。ツンデレしてくることが多いけど、やっぱりナーシャは俺のことを好きでいてくれているんだとわかる。
「東海道中膝栗毛の他にも、奥の細道とかも有名かしら。せっかく旅行に行くのだから、いっそそれくらいの長旅に案内してあげようという気持ちもあったの。でも神様ったら、私が近代小説とお願いしたから、近代小説しか許してくれないのよ」
意味のわからないところは多いしまだ全部そうだったのかと納得するほどではないけど、こうしてナーシャが俺の前に現れてくれて、不思議なこともたくさん起こっている。神様とかそういうのはさすがに信じざるを得ないだろう。
「それでも近代小説にだって旅行の話なんてたくさんあるわ。あなたがゆっくりできて、あなたに成長してもらえる場所、よく考えて探したものよ」
「ありがとう」
話が長くて内容はよくわからなかったが、ナーシャが本当に心から俺のことを思ってくれているんだってことはとにかくわかる。アナスタシア最高!
歩き続けていると、ぽつりぽつりと雨が降って来た。一瞬すごく最悪だと思ったが、どこに隠し持っていたのか完璧女子なナーシャは折り畳み傘を取り出す。二人でしかいないのだからどうせ持っているなら二本持っていればいいのに、こうして一本しか持っていないということは、ナーシャは俺と相合い傘をしたがっていたということだ。こういうところがあるからツンデレは可愛すぎるんだよ。俺がラノベ主人公と違って敏感で悪いな。
「あれ、さっきの建物ホテルっぽくない? 更に進んじゃったらもう建物なさそうじゃない? どこのホテル予約してるのさ」
雨の中、奥へ奥へとナーシャは進んでいく。
「どこも予約はしていないわ。でもこの先に風情のある旅館があるから、そこに泊まる予定よ」
この会話があってからも暫く歩いてから、やっとナーシャは立ち止まってくれた。
辿り着いた旅館は、古い古い昔ながらの家といった感じだ。籠とか干物? 干瓢みたいなのとか、そういうのが吊り下げられていて、ナーシャの後ろに着いて中に入ると、もう昔の家という感じだった。
「竈って知らない? あと干瓢ではないのよ。うぅん、こういうところは知識よね」
「いらっせえ」
ナーシャに言い返そうとしたところで、どこからか声が聞こえて来た。声の主を探すと、そこに立っていたのは坊主のおじさんである。
「お客様だよ。鶴の三番」
これまたどこかから声が聞こえてきて、高校生なんじゃないかというくらい若くて綺麗なスタッフが案内してくれた。連れて行かれたのは三階の部屋である。そこそこ広くて、外から見た旅館の古い感じのわりにしっかりした部屋だった。ふかふかそうな布団が敷いてある。




