43抱かない? いいえ、抱きます!
その後、奏はバスルームに戻って服を着直した。
性行為をしないのだから、裸でいる意味はなくなったからだ。まだ指定時刻までには時間があったが、もうチェックアウトすることにした。これ以上長居をしたら、知り合いと遭遇して誤解を招きかねない。
「ラブホテルに来る機会なんて滅多にないんですから、もう少しだけゆっくりしたかったですけどねぇ」
「勘弁してください。僕はこんな所、とても落ち着きませんよ」
「ふふふ。童貞の俊介先輩ならそうでしょうね~♪」
奏は猫のようにくすりと笑った。
ほんの数分前まで修羅場を迎えていたとは思えないほど、まったりとした会話だった。
「ねえ、俊介先輩。この箱は一体なんです?」
「アロマディフューザーでしょう。精油の香りを部屋中に拡散する器具です。匂いからするとオリエンタル系みたいですけど」
「ねえねえ、俊介先輩。この電話は何に使うです?」
「フロントへの内線電話ですね。利用時間終了前に、スタッフから延長の確認の電話がかかってきます。後チェックアウト時にこちらから電話をかける場合もありますが、今回の退室時は自動精算機を使うので、使わなくても大丈夫です」
「先輩、物知りですねえ」
奏は目を丸くした。
そして、イタズラっぽい笑みを浮かべて、
「ひょっとして、誰かと来たことあるんじゃないですかぁ?」
俊介は首を横に振った。
「違いますよ。その理由は2つあります。まず、異性と体を重ねるということは、慎重に考えて決断したいからです。こうして時間に追われたり、人目を気にすることなく、ね。もちろんラブホテルが悪いわけじゃないですけど、僕はあまり好きになれません」
俊介の声色に、真剣さが混じっていた。
瞳も鋭く見開かれている。
奏は、少し緊張した面持ちで尋ねた。
「……2つめの理由って、なんです?」
「恋華さんのことが、大切だからです」
俊介の声が、パッと明るくなった。
「笑ってもらえますか? あなたを抱くと、2度と恋華さんが戻ってこないような気がしたんですよ。とっくに振られているのに――あなたのような美人と親しくなれるチャンスなんて、もうないかもしれないのに」
「……恋華先輩」
奏は、ポツリと呟いた。
そして、あらためて思い知らされた。
俊介の中で、恋華がどれほどの割合を占めていたのか。
恋華もまた、それだけ俊介のことを愛していたということに。
――要するに、自分が入り込む隙間など、初めからなかったのだ。
自分がしたことと言えば、1ヵ月ほど2人の仲をかき乱したことだけ。
2人の中には、誰も入り込むことの出来ない『絆』が存在するのだと。
「ねえ、俊介先輩」
「なんでしょう?」
俊介が聞き返すと、奏はその顔をじっと見つめて、
「恋華先輩のこと、好きなんですね?」
「はい」
俊介は迷うことなく即答した。
そして、
「僕は瀬戸内恋華さんのことを、心の底から愛しています」
そう、それが俊介の出した結論だった。
理由などない。
だから今、どうして奏を抱かなかったのかは分からない。
距離を置くほど、時間を置けば置くほど、「瀬戸内恋華」が自分の胸から離れない。それはどんな方程式を用いても解けない難問だった。
理解できないからこそ、分かったこともある。
心の底から湧き出てくる、沸騰しそうなくらい熱い感情。
それが、愛だ。
俊介が恋華に、ずっと持ち続けてきた想い。
1人では気づけなかったこと。
今俊介は、それをハッキリと認識していた。
バカげたテンションで茶化してくる恋華、いつも明るく優しい恋華、そして自己犠牲心が強く、何よりも自分のことを思いやってくれる恋華。
そんな恋華だから。
そんな、恋華だから……。
「そんな恋華さんだから、僕は彼女のことを好きになったんです」
……。
その言葉に、奏の瞳はまた潤む。
そして、ゆっくりと唇を開く。
「先輩、抱いてください」
「えっ?」
「私のこと、抱いてください」
俊介は慌てて両手を振りながら、
「ダメですよ。さっきも言ったじゃないですか。僕は恋華さんが――」
「別に、性的な意味じゃありません。少しの間でいいから、私のこと、抱きしめてもらえないかと頼んでいるんです。――『友達』として』
その言葉に、俊介はハッとなった。
奏の体は、震えていたからだ。
そしてまぶたを赤くし、ひゅうひゅうと辛そうに呼吸している。
――泣くのを我慢しているのだ。
「奏さん」
「は、はい……」
「どうぞ。僕の胸でよかったら、好きなだけお貸しします」
俊介がそう言った瞬間、奏は俊介の胸に飛び込んだ。
……すぐに痛々しい嗚咽が聞こえてくる。
俊介は抱きしめ返そうとして、手を止めた。
代わりに、その頭を優しく撫でる。
「ひっ、ひ、ひ、ひゃう、うっ、うぅ……」
真っ赤に目を腫らしながら、奏は泣き続けた。
俊介は彼女が泣き止むまで、ずっと頭を撫でていたのだった。




