26忘れる? いいえ、忘れられません!
恋華がしばらく泣き続けていると、静かに、ドアをノックする音が聞こえた。
恋華は、ハッとなった。
親か、勝か。勝だとしたらマズい。
泣いてる所を見られて茶化されるのは腹が立つし。
心配されるのは、もっと――。
「どうした? 姉貴、いるんだろ? 入っていいか?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 今開けたら死刑よ! 死刑!」
まぶたを急いでハンカチでぬぐう。充血してないか? 腫れてないか? よし。まだ多少赤くなってるが十分美少女だ。いつもを百とするなら、大体八十というところか。
「な、なんだよ。着替えでもしてんのか? ちょっと話があるだけだって」
「うるさいわね! 今開けるわよ!」
鏡で自分チェックを終えると、恋華はドアへと向かった。
そのままゆっくりと扉を開ける。
「邪魔するぜ。あね、き……!?」
室内に入り、恋華の顔を見た途端、勝は驚愕の表情をした。
基本的にはへらへらしてるか、むくれてることが多い勝だが、時々シリアスな顔をする時がある。それはいつも、恋華が泣いている時だった。
勝の訝し気な視線に気づくと、恋華は気まずそうに目を逸らしながら言った。
「なによ。なにジロジロ見てんのよ?」
「あ、いや……」
「ああ、この顔でしょ? さっきまで、スマホで泣けるドラマ見てたから。ただ、それだけのことよ」
恋華は、咄嗟に思いついた言い訳をした。
しかし勝はくすりとも笑わず、渋い顔をしながら言う。
「……嘘をつくなよ」
それは、勝なりの直感だった。
義理の弟として。今までケンカも沢山してきたが、大好きな姉に対しての。
「なあ、姉貴。なんか悩んでんだろ? 俺でよかったら、相談に乗るぜ」
「なあに、急に? 小学生のアンタに相談するほど、お姉ちゃん落ちぶれてないわよ。それに、別に困ってることなんかないし」
心配は無用、という意味を込めて言ったのだが、別の意味もあった。まだ小学生の勝に、男女のドロドロとした恋愛模様を話したくなかったのだ。
すると勝は、怒りに顔をしかめながら、
「だから嘘つくなって!!」
「なっ……なによ? 急に」
「いいから! 俺の話を聞け!」
恋華の話を聞こうともせず、勝は感情を爆発させながら叫んだ。
そして、怒りに任せて恋華の腕をつかんだ。
白く細い右腕が、ぎりぎりと締め付けられる。
「……ッ」
恋華は叫び声が出そうなのを、懸命にこらえた。
今叫べば両親が来てしまう。こんな場面を見られでもしたら――言い訳が出来ない。
恋華が黙っていると、勝はますます声を荒げた。
「俺はな! 姉貴――いや、恋華のことが心配なんだよ!」
「……勝」
「だから……よ? いいだろ? 恋華……」
先ほどの激昂が嘘だったかのように、急に勝は優しく温和な声で、恋華の頬に手を伸ばし、
――恋華にキスをしようとした。
「……!」
しかしそれより素早く、恋華は手を動かしていた。
「何えっちいことしようとしてんのよ! このイロガキ!」
手加減のない強烈な平手打ちが、勝の頬を捉えていた。身長180センチの勝が、思わずぐらついてしまうほどの威力。
ふらつきはしたが、勝は何とか持ちこたえた。
恋華も息を荒くしながら、勝と距離を取る。
「アンタ、一体何考えてんのよ! 傷心の乙女に無理やりキスを迫ろうだなんて! テレビドラマの見過ぎなんじゃないの!?」
「ち、ちげーよ! 俺はただ、恋華を……」
「れ、ん、か?」
「……俺はただ、姉貴のことがだな……」
「そうよ! 姉貴! 呼び捨てだなんて、100年早いんだから!」
興奮しているのか、恋華もまた声を荒げた。小学生とはいえ、唇でのキスはどうしても許容できなかった。恋華は、決して勝のことが嫌いではない。鬱屈した部分はあるものの、裏表のない、バカみたいな弟は可愛い。しかし家族とはいえ血のつながりはないわけだし、性行為などもってのほかだ。
恋華はそのことを伝えようとしたが、勝の方が先に口を開いた。
「……姉貴」
「なによ?」
「好きだ」
「えっ?」
「好きなんだよ! 姉貴のことが!」
何バカなこと言ってんのよ、と言い返す暇もなく、勝は恋華を、ベッドに押し倒そうとした。抱きつき、足を絡ませ、耳元に唇を寄せながら囁いた。
「忘れちまえ」
「は?」
「俊介のヤローだよ。あんなヤツのことなんか、忘れちまえ。姉貴だって、いつまでも独り身でいるつもりなんかねーんだろ?」
「あんた……」
「俺が忘れさせてやるから。恋華の望んでることなら何だってしてやるし、寂しくなんかさせない。だから、俺と……」
「……いい加減にして!」
「あぐっ!」
渾身の力を込めた肘打ちが、勝の腹部に命中した。
恋華は荒い息を吐き、立ち直りながら言った。
「ふざけないでよ! いくら弟だからって、やっていいことと悪いことの区別もつかないの!? 女の子を強引に押し倒そうだなんて、犯罪よ! 相手が私じゃなかったら、訴えられてもおかしくないんだからね! 分かってるの!?」
その怒りの表情は、心から嫌悪しているようだった。
動揺していたというのもあるが、それだけではなかった。
元々性行為に対しては臆病だし、無理やりされるよりは、ちゃんと気遣って優しくされる方がいい。
少なくとも、レイプのような真似は絶対ごめんだ。
そもそも、俊介以外の男と肌を重ねるなんてことは、今の恋華には考えられないことだった。
瞳を鋭く、口を大きく開けながら、恋華は勝に向かって叫んだ。
「もう1度だけ言うわよ? さっきのことは忘れてあげるから。2度としないで! 次やったら、どうなっても知らないからね!」
「姉貴。姉貴は、俺のこと……」
「アンタは、ただの弟! 姉弟でいやらしいことするなんて、正気じゃないわ! だから、絶対止めなさい! わかった!?」
「……うう!」
恋華にキツい目でにらまれ、勝は口惜しそうに視線を落とした。
しかしすぐに、ガバッと勢いよく顔を上げて、
「わかんねえよ!」
てっきり反省していると思ってた恋華は、怒号を発する勝に、思わず驚嘆してしまった。
「……何でだよ! 俊介ならいいのかよ! アイツはもう、姉貴と別れたんじゃねえのかよ! それとも、よりを戻そうとか言われたのかよ!?」
「言われてないよ」
「だったら! もうアイツのことは忘れて、新しい男作るべきだろ! そうやって、割り切ればいいじゃねえかよ!」
「割り切れないんだよ」
「なんでだよ! なんで割り切れないのか、言ってみろよ!」
勝の追及に、恋華は言葉に詰まった。理不尽な叱責を受ける子供のような顔をしている。自分は酷く薄汚いこととしている、と勝も罪悪感を感じずにはいられなかったが、言葉の歯止めは効かない。しばらく黙りこくっていた恋華は、俯き加減に、不鮮明につぶやく。
「……じゃない」
「あ?」
勝が威圧的に聞き返すと、恋華は顔を上げ、キッと勝を睨みつけながら、
「だって好きなんだから、しょうがないでしょお!?」
「…………」
その言葉は。刃物よりも鋭く、勝の胸をえぐった。
実際は分かっていたのだ。本当は恋華は、まだ俊介のことを好きでいると。そう考えながら、気づかないフリをしていただけなのだ。
「もういいでしょ! 勝のことなんて、大嫌い! さっさとこの部屋から出てってよ!」
「……あ、姉貴」
絶望的な心境で、せめて恋華を慰めようとした勝だったが、
「……もういい! 勝が出ていかないなら、私が出て行く!」
と、恋華は勝を突き飛ばしながら、部屋を走り去っていった。
そのままドカドカと階段を駆け下りる音が聞こえる。
おそらくは、リビングにでも行って、泣いているのだろう。
1人取り残された勝は、ゆっくりと立ち上がった。
ふと、テーブルの上に置かれた写真立てが目に入った。
「俊介……! てめえが……!」
写真立てに写っていたのは、10年前の恋華と俊介だった。以前茶化した時、死ぬほど怒られたもの。10年。この年月分の絆が、自分と俊介の差か。そう思うと、勝の心中はやり場のない怒りで満ちていた。
しばらく無言で見つめていた勝だったが、写真立てを手に取ると、写真に写る俊介に向かって、吐き捨てるように言った。
「……俊介。覚えてろよ。お前だけは、絶対許さねえ。必ずお前を、姉貴から取り戻してやるからな」




