32チャンス? いいえ、ピンチです!
「俊介……君」
人物を目の前にし、名前を呼びながらも、恋華には現実味が全く沸いてこなかった。俊介は今までに見たこと無いような険しい顔をしながら緋雨を睨みつけている。その表情が、最近見たドラマのヒーローに似てる気がして、思わず「カッコいい!」と叫び出しそうになった。
「緋雨さん」
俊介は、緋雨の名を呼んだ。緋雨は、無表情のまま立ち尽くしている。
「一体どういうことですか? これはなんですか? れっきとした犯罪ですよ!」
普段はクールな俊介が、感情をむき出しにして叫んでいる。自分のために。恋華は胸が熱くなるのを感じていた。
「黙ってないで、何とか言ったらどうなんですか?」
俊介は、緋雨に詰め寄った。妹にはいつも優しい俊介が、こんなに怒りをあらわにするのは初めてだった。
「…………」
「なんて言いましたか? 全然聞こえませんけど」
「……全ては、兄君のためにしたことなのですよ」
シュンとしてるのかと思いきや、淡々と緋雨に答えられたので、俊介は多少面食らう。
「僕のため? どういうことですか?」
緋雨は答えた。
「言ったはずです。わたくしめは、兄君をお守りするのが使命であると。今はまだ、わたくしめの言うことを理解できぬかもしれませぬ。しかし、そこの雌豚は兄君を利用し、誑かそうとする悪魔です。よって、わたくしめは全身全霊をもって、兄君から引き離したいと考えておりまする」
心底俊介に傾倒したような表情で、緋雨は言った。まるで、神を崇拝するがごとく。俊介はその目に見つめられて、背中にぞわぞわと悪寒のようなものを感じた。
「真実を申しますと。俊介兄君には、わたくしめ以外の者共と関わってほしくはございませぬ。貞操観念の低い女は、そこら中におりまする。羞恥心の欠片もないような女子が、兄君を食いつぶすのです。この女のように」
「緋雨……さん」
「わたくしめはですね、兄君。この世は弱肉強食だと思っておりまする。弱いものは死に、強いものは生きる。それこそが、この世の心理だと。兄君は優しいお方ですから、今はまだ分からないかもしれませぬ。しかし、いつかはわたくしめが正しいと分かります。分からせてみせまする」
俊介は驚いていた。これだけのことを喋りながら、緋雨からは熱意のようなものが全く感じられなかったからだ。まるで当たり前のことを話してるように、淡々と話している。
「わたくしめは、他の人間と自分が違うことを、自覚しました。1年前の事件の折に。兄君に暴言を吐いた愚か者は、市内でも屈指の不良で、周りに迷惑しか掛けないクズでした。なのでわたくしめが制裁を加えました。しかし、母君はわたくしめを酷く叱りつけました。頬も叩かれました。まるで、わたくしめが全て悪いかのように。その時にわたくしめは気づいたのです。ああ、この者達とは住む世界が違うのだなと。父君も同様です。耳障りのいい一般論や性善説を唱えるだけ。
だから、演技をしたのです。皆が揃って善人であろうとするならば、わたくしめもそれに混じろうと。兄君のみならず、学校の教師も同級生もそう。わたくしめの演技を見抜いた者は1人もおりませんでした。お分かりですかな? つまり人間は、見た目に惑わされる生き物だということです。この女も同様です。美しい容姿を利用し兄君に近づき、取り入ろうとした。人間など、そういう生き物なのです」
「それは……」
俊介は息を呑んだ。
緋雨は微笑む。
「ご安心を、兄君。わたくしめが救ってみせまする。一日中兄君のお傍にいて、愛を囁きまする。兄君が、わたくしめのことしか考えられなくなるまで。勿論、性行為もいたしまする。娯楽が何もない状態で、わたくしめと交わることしか快楽がない。兄君は、すぐに思い至るでしょう。兄君の伴侶にふさわしい人間は、わたくしめしかいないと」
俊介は、動くことが出来なかった。恋華を助けたいのに。まるでヘビに睨まれたカエルのように、足がすくんで動けなかった。
「これはちょうどよい機会。いえ、むしろ絶好の好機。兄君も御覧になるとよいでしょう。兄君に近づこうとした愚かな雌豚が、目の前でならず者に犯されるのを」
緋雨は目線で合図を送った。男達が下卑た笑いを浮かべる。
「ま……待ってください!」
俊介は恋華に駆け寄ろうとした。しかし、行く手を大男が阻んだ。この間絡んできた、郷田だった。郷田は、口元を歪めながら笑っていた。
「おっと。この先には行かせねえよ」
「ど……どうして」
「答える義理はねえよ」
郷田は、俊介の目の前まで距離を詰めた。
「事が済むまで、大人しくしてな」
郷田の鉄のような拳が、俊介の腹に深く入った。
「がはっ!」
俊介は短くうめき声を上げ、うずくまろうとした。だが郷田はそれを許さず、俊介の頭を掴んで上に持ち上げた。
「ぐうっ……!」
俊介は苦痛の声を漏らした。大きな手は万力のように締め上げてきて、呼吸ができない。頭がじわじわと締め付けられる痛みと息苦しさの両方が、俊介を襲っていた。




