第6話 過去からの亡霊
伝令兵の報告から、わずか数分後。
玉座の間に、空間そのものが歪むような、甲高い魔法の詠唱が響き渡った。床に描かれた巨大な転移魔法陣が、眩い光を放ち始める。
将軍たちが、一斉に臨戦態勢に入った。ボルガは戦斧を握りしめ、ゼグスは腰の剣に手をかける。骸骨の魔術師の周りには、青白い防護結界が展開されていた。
やがて光が収まると、魔法陣の中には、十数人の人影が立っていた。
先頭に立つ数名は、聖なる力を宿した白銀の鎧に身を包んだ騎士。その後ろには、フードを目深にかぶった者たちが控えている。
そして、その集団の中心にいるのは――。
伝令の報告通り、全員が、気品のある紫紺のローブを身にまとっていた。その胸には、白亜の天秤をかたどった「聖教会」の紋章が、誇らしげに刺繍されている。
清廉な、しかし、底の知れない冷たい魔力。それは、ただの聖職者のものではなかった。
やがて、その一団の中から、一人の男がゆっくりと前に進み出た。
歳の頃は三十代半ばだろうか。柔和な笑みを浮かべ、優雅な所作で一礼する。金色の髪は艶やかで、その整った顔立ちは、英雄譚に登場する王子様そのものだ。
「魔王ザイレム殿に、初めてお目にかかります。私は、人間諸国連合の全権大使、並びに勇者アレス様の名代として参りました、スズキと申します。以後、お見知りおきを」
その名を、聞いた瞬間。
俺の心臓は、氷の爪で鷲掴みにされたかのように、一度、動きを止めた。
(……すずき?)
嘘だ。
嘘だろ。
そんなはずがない。同姓同名の、別人だ。
だが、その自信に満ちた声も、人を見下したような目の奥の光も、俺の記憶にこびりついて離れない、あの男のものと、寸分違わなかった。
鈴木。
俺を過労死に追い込み、人生を破壊した、元上司。
その男が、なぜ。
なぜ、こんな場所に。
俺の脳裏に、鮮明な悪夢が蘇る。
◇
『――こんなもの、紙の無駄だ』
深夜のオフィス。鈴木は、俺が徹夜で仕上げた企画書を、目の前で、びり、びりと、ゆっくりと破り捨てた。あの時の、侮蔑に満ちた目。俺は、ただ「申し訳ありません」と繰り返すことしかできなかった。
◇
「…っ、はぁ、っ…!」
気づけば、俺の呼吸は浅くなり、全身から嫌な汗が噴き出していた。
将軍たちの緊張とは質の違う、純粋な恐怖が、俺の全身を支配する。
鈴木は、まだこちらには気づいていない。玉座の魔王だけを見据え、その柔和な笑みを崩さずにいる。
「して、魔王殿。我々の休戦協定案、ご検討いただけましたかな?」
鈴木は、まるで王に謁見するかのような、芝居がかった口調で言った。
「我らが勇者アレス様は、慈悲深いお方だ。これ以上の無益な争いは望んでおられない。この寛大な提案を、賢明なる魔王殿が受け入れてくださるものと、信じておりますぞ」
その言葉と同時に、鈴木の側近らしきフードの男が、一歩前に進み出る。その顔は影に隠れて窺えないが、差し出された羊皮紙を持つその口元に、薄く、残酷な笑みが浮かんでいるのを、俺は見逃さなかった。
ボルガが「ふざけるな!」と怒声を発しようとするのを、ゼグスが手で制した。
魔王ザイレムは、ただ静かに、その尊大な男を見据えている。
(ダメだ…)
飲まれるな。
自分の、荒い呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
だが、鈴木のあの侮蔑に満ちた視線と交わった瞬間、俺の中で何かが焼き切れた。恐怖より先に、前世で踏みにじられた尊厳という“対価”を取り戻したいという、焼け付くような渇望が燃え上がったのだ。
俺は一度、強く拳を握りしめた。爪が食い込むほどの痛みで、過去の悪夢を無理やり意識の底に捻じ伏せる。高鳴っていた鼓動が、一瞬、確かに止まった。そして、次の鼓動と共に、俺はゆっくりと立ち上がり、一歩、前に出る。
その気配に、鈴木以外の交渉団の視線が、一斉に俺に突き刺さった。
「…その協定案、いくつか、致命的な問題点がございます」
俺の声は、自分でも驚くほど、冷静に響いた。
恐怖を、怒りに、そして、法務家としての冷徹なプロ意識に塗り替える。
俺の発言に、鈴木は初めて、面倒臭そうに視線をよこした。
俺の、みすぼらしい格好を見て、侮りがその目に浮かぶ。
「ほう? 魔王軍にも、文字が読める者がいたとは驚きだ。して、そこの人間。お前は何者だね?」
俺の発言に、鈴木の後ろに控えていた騎士たちが、怪訝な顔で顔を見合わせる。
「魔王軍法務部長、真壁と申します」
俺は、震えを押し殺し、名乗った。
「さて、鈴木殿。あなたの提示された協定案ですが、例えば、第4条の資産差し押さえに関する条項。そして、第8条に定められた、事実上の一方的な『軍事顧問派遣義務』。これらは、いずれも致命的な問題を抱えています」
俺が、理路整然と、その条文に隠された欺瞞を指摘し始めた、その時だった。
鈴木の、自信に満ちた笑みが、ぴたり、と止まった。
彼は、俺の顔を、そして俺の言葉を、記憶の底から何かをたぐり寄せるように、じっと見つめている。
鈴木の目の奥の光が、一瞬、確かに揺れた。目の前の、みすぼらしい人間の姿と、記憶の底にある「使えない部下」の残像が、ようやく繋がったのだ。
そして、彼の口元に、あの、俺が前世で何度も見てきた、全てを見下しきった、歪んだ笑みが浮かんだ。
「貴様…」
鈴木のその唐突で、個人的な問いかけに、後ろに控えていた騎士や側近たちが、いぶかしむように視線を交わす。公的な交渉の場で、魔王軍の一兵卒(に見える男)に、なぜこれほど執着するのか。その場の空気に、奇妙な歪みが生まれていた。
鈴木は、俺を指さした。
「どこかで会ったことがあるか? 俺の昔の、使えない部下に、喋り方がそっくりだ」
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