第36話:英雄の不眠
魔王城、法務部長執務室。 インクの匂い、乾いた羊皮紙の匂い、そして冷え切った薬湯の匂いが混じり合っている。 真壁 仁は、三日ぶりに顔を上げた。窓の外は、すでに何度目かの夜が始まっていた。
(……この条項では、"復興支援"の名目で聖法神王国のインフラ所有権が曖昧だ。これでは占領と変わらない。修正。権限委譲の期限を明記。管理委員会への段階的移管……)
羽ペンを握る指先が、細かく痙攣する。 机の上には、羊皮紙の塔がいくつもそびえ立っていた。 『聖法神王国・国家再建計画書Ver.18.2』 『王都インフラ整備に関する技術供与契約書』 『戦災孤児保護法(暫定案)』
扉が、破壊されるような音を立てて開いた。 「真壁! まだやってんのか!」 オーク将軍ボルガが、湯気を立てる猪肉の串焼きを盆に載せ、その巨体をねじ込ませる。 「いい加減にしろ。三日前から顔色が死人だぞ。休め」 真壁の視線は、羊皮紙の文字を追ったまま、動かない。 「……ボルガ将軍。ありがとうございます。ですが、まだやれます」 その声は、真壁自身のものとは思えないほど平坦だった。 ボルガは、その虚ろな目に一瞬息を呑み、だがすぐに牙を剥いた。 「……そうかよ」 盆が、机の端に叩きつけられる。ボルガは何も言わず踵を返し、その足音は床を激しく震わせた。
入れ替わるように、リアナが書類の束を抱えて入室した。 「部長。先ほどの会議の議事録と、各部署からの追加要求事項です」 「……ああ」 真壁の指先だけが、次の資料を求めて神経質に動く。 「デスクに置いておいてください」 リアナの足が、その場で縫い止められたように止まった。 彼女は、目の前の男の横顔を見つめた。書類の山に埋もれ、青白い顔でペンを走らせ続ける姿。 (……人として扱われる、権利……) 彼女の唇が、声にならない形を紡ぐ。 リアナは、音を立てずに書類を置くと、静かに部屋を辞した。
(……ダメだ、集中が途切れる。なぜだ。計画は完璧なはずだ。この国家再..."戦"に……) 視界が歪む。羊皮紙の文字が、黒い蟲のように這い回り始めた。
ガタン。
椅子から崩れ落ちる。 床に叩きつけられる衝撃。
……痛みは、ない。 鼻をつくのは、古いビルの埃の匂い。安っぽい芳香剤。 明滅する、白い蛍光灯。
真壁は、はっと顔を上げた。 見慣れた魔王城の石造りの天井ではない。 低い、シミのついた天井。 窓の外は、東京の汚れた夜景。 前世の、オフィス。
「よお、真壁」
心臓が、氷の手で掴まれたように冷えた。 デスクの向かい側。 かつての上司・鈴木が、嘲るような笑みを浮かべて座っていた。
「お前、結局こっち側に来ちまったな」
鈴木は、真壁が今まさに書いていた「国家再建計画書」を、無造作にめくる。
「他人を"仕事"としてしか見られない、俺たちと同じ側に」
ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。
次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です
活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。
作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/
Xアカウント:@tukimatirefrain




