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第3話 狡猾な商人と、最初の“勝利”

リザードマンの将軍――彼の名はゼグスというらしい――が去った後、俺は机の上に置かれた一枚の羊皮紙と向き合っていた。

本来であれば、世界の命運を左右する「休戦協定案」の起草という、とんでもない業務が最優先のはずだ。だが、ゼグスが俺に向けた、あの藁にもすがるような、それでいて試すような瞳を思い出すと、こちらも疎かにはできなかった。


(それに…)

この手の契約書レビューは、前世で死ぬほどやった。ある意味、俺が唯一、自信を持って価値を発揮できる分野だ。


俺は気持ちを切り替え、武具の納入契約書に意識を集中させる。

一見、ごく普通の契約書だ。納入される剣や鎧の数、単価、納期、支払い条件。ぱっと読んだだけでは、ゼグスが懸念するような「裏」は見当たらない。魔王軍の補給部が中身も見ずに判を押す、というのも無理はないかもしれない。


だが、俺の目はごまかせない。

長年の社畜経験で培われた「リスク発見能力」が、警報を鳴らしていた。


(…あった。ここだ)


俺は、いくつかの危険な条文に目星をつけた。


一つ目、定義の曖昧さ。

「高品質な鋼鉄製の武具」とあるが、この「高品質」の基準がどこにも明記されていない。これでは、納品された武具が粗悪品だったとしても、「我々にとってはこれが高品質だ」と言い逃れられてしまう。


二つ目、不利な支払い条件。

代金の支払いは「納品時」と定められている。武具の品質をこちらが確認し、「検収」する前に支払義務が発生する。もし不良品を掴まされても、代金は返ってこないだろう。


三つ目、一方的な遅延損害金。

魔王軍側の支払いが一日でも遅れれば、年利50%というとんでもない遅延損害金が発生する。しかし、商人側の納期が遅れた場合の罰則規定は、どこにもない。


そして、最も悪質なのが、四つ目。

契約書の末尾に、小さな文字でこう書かれている。

「本契約に関する一切の紛争は、人間の王国『中央交易都市』の裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とする」


(…なるほどな。喧嘩するなら相手の土俵で、か)

魔王軍が、人間のど真ん中にある裁判所に訴訟を起こすなど、事実上不可能だ。つまり、どんなトラブルが起きても、泣き寝入りするしかない。


これは、詐欺すれすれの、極めて悪質な契約書だった。

俺は静かにペンを置き、ゼグスを呼ぶよう従者に伝えた。



しばらくして、ゼグスに引き連れられて、例の人間の商人がやってきた。小太りで、やけに身なりのいい男だ。人好きのする笑みを浮かべているが、その目の奥は全く笑っていない。


「これはこれは、魔王軍の皆様。私、行商人のガメルと申します。この度は、我々の武具をお選びいただき、誠に光栄の至り…」


「単刀直入に聞く」

ゼグスが、そのおべっかを冷たく遮った。

「この契約書、何やらおかしい点があるそうだな。こちらの…法務部長殿が、貴殿にいくつか確認したいことがあるそうだ」


ガメルと呼ばれた商人は、初めて俺の存在に気づいたように視線を向けた。その目には、「なんだ、ただの人間か」という侮りがはっきりと見て取れた。


「ほう、法務部長殿? これはご丁寧に。契約書に何か不備でも?」


俺は、表情を変えずに口を開いた。

「ええ、いくつか。まず、品質の定義についてお伺いしたい。『高品質な鋼鉄』とは、具体的にどのような基準を指すのでしょう?」


「はっはっは。それはもちろん、我々が長年の経験で培った、最高の品質基準にございますよ」

ガメルは、悪びれもせずに答える。


「なるほど。では、その基準を、契約書の別紙として添付していただけますか? 例えば、鋼の硬度や、耐久性に関する具体的な数値で示していただけると、我々も安心してお支払いできるのですが」


ガメルの笑顔が、わずかに引きつった。

「…はは、ご冗談を。我々と魔王軍様との、信頼関係ではございませんか」


「信頼、ですか。では、支払いを『検収完了後』と変更するのも、信頼の証として問題ありませんね? こちらが武具の品質を確かめてから、代金をお支払いする。至極、当然の取引手順かと存じますが」


「なっ…!」

ガメルが、ついに言葉に詰まる。


俺は畳み掛けた。

「さらに、遅延損害金。当方の支払いが遅れれば年利50%、貴殿の納期が遅れてもペナルティ無し。これも、信頼関係に基づいた、公平な契約と?」


「そ、それは…商慣習と言いますか…」


「では、最後の質問です」

俺は、契約書の末尾を指さした。

「紛争時の裁判管轄が、人間の都市に指定されている。これは一体、どういうおつもりで?」


ガメルの顔から、完全に笑みが消え失せた。額には脂汗が浮かんでいる。

彼は、もはやこれまでと観念したのか、あるいは開き直ったのか、声を荒らげた。

「…ええい、うるさい! その契約書は、すでに双方の魔力印で封印済みだ! 今更、内容を覆すことなどできん!」


その言葉を、待っていた。


俺はゆっくりと立ち上がり、机の上の契約書に、そっと指を触れた。

「…一つ、教えて差し上げましょう」


俺は、この世界に来てから自然と理解していた、古の“契約言語リーガル・ルーン”を静かに紡ぐ。

「契約は、信義誠実の原則に基づき履行されなければならない」


俺がそう呟くと、指先から放たれた青白い光が、契約書の上に複雑な幾何学模様の魔法陣を描き出す。その光に触れた文字たちが、まるで生命を宿したかのように脈打ち始めた。


「契約の一方当事者に、相手方を欺罔ぎもうする意思があり、それによって相手方が錯誤に陥り、意思表示を行った場合――その契約は、取り消すことができる!」


俺の言葉に呼応するように、契約書が禍々しい紫色の光を放ち始めた。

ガメルが「ひっ!」と短い悲鳴を上げる。

そして、俺が問題点として指摘した条文――品質定義、支払い条件、遅延損害金、裁判管轄――の文字が、まるで墨で塗り潰されたかのように、黒く変色していく。


「な、なんだこれは!? 俺の契約書が…!」


「ご覧の通り、この契約書は“瑕疵かし”だらけだ。法的に、無効です」

俺がそう宣告すると、黒く変色した部分が、ボロボロと音を立てて崩れ落ち、羊皮紙にぽっかりと穴が空いた。


ガメルは、その場でへなへなと腰を抜かした。


隣で一部始終を見ていたゼグスが、その冷徹な仮面の下で、抑えきれないといった様子で短く息を漏らす。

「…見事だ」

その呟きには純粋な畏敬の念が満ちており、彼の口元には、本人も気づかぬほどの、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。


これが、俺の、この世界での最初の“勝利”だった。



結局、ガメルは泣きながら、俺がその場で作成した公平な契約書にサインして去っていった。

ゼグスは、俺の肩を力強く叩くと、「…恩に着る、法務部長」と、それだけ言って持ち場に戻っていった。その横顔は、明らかに俺への評価が変わったことを示していた。


(ふぅ…)

大きなため息をつく。

前世と変わらない仕事内容。だが、得られる達成感は、比べ物にならない。

初めて、自分の知識が誰かの役に立った。その事実が、乾いた心に染み渡るようだった。


「さて、と…」

俺は気持ちを切り替え、机の上に広げられた白紙の羊皮紙に向き直る。

「本命の、休戦協定案に取り掛かるか…」


そう呟いた、その時だった。


ドガァァン!!


玉座の間の巨大な扉が、蹴破られたかのような轟音と共に開いた。

そこに立っていたのは、血相を変えたオークの将軍ボルガだった。


「魔王様! 大変です! 人間どもの武具納入が遅れたせいで、装備が行き渡らん! 我がオーク部隊の連中が、これでは戦えんと、全員ストライキに突入しやがりました!」


背筋に、冷たい汗が流れるのを感じた。

どうやら、この職場では、平穏な時間など望むべくもないらしい。


ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。HTMLリンクも貼ってあります。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です。

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話を更新しています。(Xアカウント:@tukimatirefrain)

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