第29話 逆転の“住民票”
「――お答えします。私は――」
法廷の全ての視線が、証言台のクラウスに注がれる。
彼の口から、どんな言葉が紡がれるのか。その一言が、この戦争の行方を決める。
「私は、故郷に残した両親を、心から愛しています」
クラウスの声は、静かだったが、揺るぎない覚悟に満ちていた。
「彼らが穏やかな余生を送ること。それが、私の唯一の望みです」
その言葉に、ヴァレリウスの口元が、勝利を確信したかのように、歪んだ。
「――だからこそ!」
クラウスの声が、力強く響き渡る。
「だからこそ、私はこの場所で得た“法”と“尊厳”を信じるのです! 私がここで奴隷のように屈すれば、両親は、息子が誇りを捨てたと、嘆き悲しむでしょう! 私の意志は、この特区にあります!」
魂の叫びだった。
法廷は、どよめきに包まれた。だが、その感動も、ヴァレリウスが作り出した「人質」という非情な現実の前では、決定打にはなり得ない。
万策尽きたか。誰もがそう思った、その時だった。
「待った。俺にも、証言させてもらおうか」
傍聴席から、野次でも、悲鳴でもない、冷めた声がした。
声の主は、証言辞退を申し出ていたはずの、あの皮肉屋の元役人、ギデオンだった。
彼は、魔王の許可を得て、自らゆっくりと証言台へと歩みを進めた。
ギデオンは、まずヴァレリウスに、侮蔑とも憐憫ともつかぬ、冷ややかな視線を向けた。
「…“神の鞭”殿。あなたの弁論は、実に見事なものだ。涙と RHETORICで大衆を扇動する様は、まるで三流の芝居を見ているようだ」
そして、彼は元官僚らしい、冷徹な論理で、ヴァレリウスの主張の矛盾点を、一つひとつ的確に突き崩していく。
「貴殿は我々を“拉致された哀れな被害者”と呼ぶが、実に結構なご身分だ。故郷では、我々平民から重税を搾り取っていた貴族たちが、今、どの面を下げて、我々の“人権”を語るのか」
そして、ギデオンは、俺に完璧な“パス”を出した。
「我々が“拉致”されたと言うのなら、是非ともお聞かせ願いたい。我々の“現在の身分”とやらを、法的に証明していただこうではないか、法務部長殿」
その言葉を、待っていた。
俺は立ち上がり、最後の証拠品として、「人間特区住民憲章」と、それに基づき発行された、全住民分の「特区住民票」の控えを、委員会の席に提出した。
そして、法廷にいる全ての者たちに、宣言する。
「この住民票は、単なる身分証ではありません」
「これは、【契約魔法】に基づき、『自らの意志で人間諸国連合の庇護を離れ、魔王軍および人間特区の法の下に入る』ことを宣誓した、法的地位の変更証明書です」
俺は、一言一句、区切るように、告げた。
「つまり、彼らはもはや“拉致された人間諸国連合の国民”ではない。“自らの意志で魔王軍の庇護民となった、特区の住民”なのです」
「したがって、原告である人間諸国連合には、そもそも、彼らの“返還”を要求する**当事者適格(訴える資格)**そのものが、法的に存在しない!」
シン―――…
法廷は、完全な沈黙に支配された。
ヴァレリウスは、その無慈悲なほどに完璧な法理論の前に、初めて言葉を失っていた。
彼の世界は、常に「神の正義」と「大衆の感情」が全てだった。だが今、目の前にあるのは、感情の入る隙もない、冷徹で、鉄壁の「手続き(システム)」そのものだった。
自信に満ちていた表情が、驚愕、狼狽、そして最後には、今まで味わったことのない完全な“敗北”を認める、屈辱の色へと変わっていく。彼の拠り所としていた世界が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
法廷の片隅で、エルフとドワーフの代表が、静かに互いの顔を見合わせる。
エルフが、まるで歴史の転換点を目撃したかのように呟いた。
「…新しい国家の誕生、か。それも、剣や魔法ではなく、“法”によって」
ドワーフが、その言葉に重々しく応える。
「ああ。世界の天秤は、今日、大きく傾いたぞ」
◇
委員会は、魔王軍の全面勝訴を、厳粛に宣言した。
法廷闘争に勝利し、人間特区の正当性は、国際的に、そして法的に、完全に認められた。
――だが、祝杯をあげる時間は、なかった。
魔王城に、血相を変えた伝令が駆け込んできたのは、そのわずか数時間後のことだった。
「緊急速報! 人間諸国連合、過激派筆頭である『聖法神王国』が、声明を発表!」
「“異端者と悪魔の自治区を放置することは、神への冒涜である”として、『神の御名による浄化戦争』を宣言!」
「先遣隊が、すでに国境を越え、人間特区に対し、正規軍による武力侵攻を開始したとの報せです!」
法で守り抜いた街に、今度は物理的な戦争の嵐が、すぐそこまで迫っていた。
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