第27話 召喚状と“法の戦争”
人間特区の運営は、驚くほど順調に軌道に乗っていた。
ドワーフが築いた堅牢な住居に、人間たちが家族単位で暮らし、子供たちの笑い声が響く。市場では、ゴブリンの商人が持ってきた珍しいキノコと、人間の農夫が育てた瑞々しい野菜が、活発に取引されていた。
かつての敵同士が、ここでは「隣人」として、新しい社会を築き始めている。その光景は、俺が夢見た理想そのものだった。
だが、その脆い平穏を打ち砕く一枚の羊皮紙が、魔王城に届けられるのに、そう時間はかからなかった。
それは、俺自身が起草した書式に則った、「合同調停委員会」からの、極めて正式な召喚状だった。
「議題:『人間諸国連合に所属する国民の、魔王軍による不法な拉致、および、強制労働に関する件』。原告、人間諸国連合…だと?」
緊急招集された最高幹部会議で、ゼグスが召喚状を読み上げる。
その場にいた誰もが、その議題の裏にある、邪悪な意図を即座に理解した。
「漆黒の天秤」だ。
「茶番も大概にしろ!」
ボルガが、戦斧を床に叩きつけ、玉座の間を震わせる。「拉致だと? 強制労働だと? 奴らは、自らの足でここに来たのだろうが! こんなもの、無視して叩き潰してしまえばよい!」
彼の激昂に、多くの将軍が同調する。だが、俺は静かに首を横に振った。
「いえ、ボルガ将軍。この戦、受けて立たねばなりません」
俺の声に、全ての視線が集まる。
「我々がこの召喚を無視すれば、その瞬間に我々は“法を破る者”となり、人間特区の正当性も、休戦協定そのものも、全ての“正義”を失うのです。敵は、それをこそ狙っている」
これは、剣や魔法の戦争ではない。
正義と正義をぶつけ合う、国家の存亡を賭けた“法の戦争”なのだ。
俺の決意を、魔王ザイレムはただ静かに見つめ、そして深く頷いた。
会議の後、俺はすぐさま準備に取り掛かった。
まず向かったのは、リアナ・フォルセの執務室だった。
「――リアナ殿。あなたの力が必要です」
俺は、彼女の前に立ち、深く、深く頭を下げた。
「この法廷では、あなたの“人間社会の法と常識”、そして国際儀礼に関する専門知識が不可欠です。オブザーバーとしてではなく、我々魔王軍代表団の一員として、共に戦っていただきたい」
俺は、一枚の辞令を差し出した。そこには、「法務部・筆頭外交顧問」という、新しい役職が記されていた。
リアナは、一瞬、驚いたように目を見開いたが、やがて、その唇に力強い笑みを浮かべた。
「ええ、喜んで。私の知識が、真壁さんの築いたものを守るために使えるのなら」
彼女は、その辞令を、確かに受け取った。
だが、我々を待ち受けていたのは、生半可な相手ではなかった。
リアナが独自の情報網で得た、敵の代理人の正体。その名を聞いた時、彼女の顔からさえ、血の気が引いていた。
聖教会の異端審問官にして、「“神の鞭”のヴァレリウス」。
聖教会の中でも最も冷酷無比な法廷戦術家。無数の異端者を、その弁舌だけで火刑台に送ってきた、血も涙もない男。
そして、その夜。
ヴァレリウスの最初の「攻撃」が、人間特区を襲った。
「嘘だろ…そんな…」
特区の広場に集まった住民たちの間に、絶望的な動揺が走る。
故郷の家族が、聖教会の「保護」という名目の下に、事実上の軟禁状態に置かれたという報せが、もたらされたのだ。
「今こそ、我々の意志を示すべきだ!」
騎士クラウスが、皆を鼓舞するように叫ぶ。「ここで屈すれば、我々は真の奴隷になるぞ!」
だが、その魂の叫びは、あまりに無力だった。
人垣の中から、幼い子供を故郷に残してきた母親が、泣き崩れながら叫んだ。
「家族の命を、天秤にかけろと!? あなたに、そんな酷いことができますか!」
その悲痛な声に、誰もが言葉を失う。
壁に寄りかかり、腕を組んでいた皮肉屋の元役人ギデオンが、吐き捨てるように言った。
「希望を見せた後に、より深い絶望を突きつける。実に悪趣味なやり口だ。結局、我々はどこへ行っても、無力な駒ということか…」
住民たちの心の中で、「恐怖」と「尊厳」の天秤が、ギリギリと悲鳴を上げていた。
◇
翌朝。
俺の元に、悪夢のような報告が殺到した。
クラウスをはじめ、法廷での証言を約束してくれていた住民の、実に半数以上から、「家族の身に危険が及ぶため、証言を辞退したい」という、苦渋に満ちた申し出が届いたのだ。
手元に残された証人は、あまりに少ない。
敵は、法廷が始まる前に、俺の武器のほとんどを奪い去った。
俺は、この圧倒的に不利な状況で、“法の戦争”の初日を、迎えなければならなかった。
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