第26話 最初の“住民”と、住民憲章
「――ここは、俺たちを効率よく管理するための、ただの収容所だ」
「漆黒の天秤」のスパイが蒔いた、その毒の種は、過酷な労働と将来への不安を抱える人間たちの心に、驚くべき速さで根を張り、芽吹いていった。
あれほど希望に満ちていた建設現場の空気は、日を追うごとに淀み、疑心暗鬼が支配するようになっていく。
工具が「事故」で壊され、資材が「紛失」する。些細なことで、人間同士の諍いが頻発する。かつての熱気は、どこにもなかった。
そして、ついにその不満は、臨界点に達した。
人間労働者の中から選ばれた代表団が、建設現場の中央で作業を放棄し、俺に面会を要求してきたのだ。
「我々は、奴隷になるためにここに来たのではない!」
代表の男は、集まった人間たちの前で、俺に挑戦的に言い放った。「この不当な労働環境の改善と、我々の身分の保証を! それが認められぬ限り、建設作業には一切応じられん!」
その言葉に、警備についていたボルガの眉が、ピクリと動いた。
「…貴様ら、魔王様の慈悲を忘れたか。これ以上、勝手を言うなら、力ずくで…」
「お待ちください、将軍」
俺は、ボルガの肩を、静かに手で制した。
ここで力を用いれば、スパイの思う壺だ。噂が、真実になってしまう。
俺は、代表団と、その周りに集まった全ての人間たちに向き直り、宣言した。
「…分かりました。あなた方の不安は、もっともです。では、話し合いましょう。一週間後、この広場で、『第一回・特区住民説明会』を開催します」
◇
一週間後。
建設中の広場は、不安と期待が入り混じった、数千の人間たちで埋め尽くされていた。
俺は、ボルガ、ゼグス、そしてクラウスを伴い、その壇上に立った。
俺はまず、都市計画の全容を、改めて彼らに公開した。
「この上下水道は、あなた方を疫病から守るためにあります。このゾーニングは、あなた方が静かで快適な生活を送るためにあります。この経済システムは、あなた方が正当な労働の対価を得て、尊厳ある暮らしを築くためにあります」
俺は、全てのインフラや制度が、彼らを管理するためではなく、彼らの生活を豊かにするために設計されていることを、一つひとつ、丁寧に説明した。
ざわめきが、少しずつ、静かな傾聴へと変わっていく。
そして、俺は最後の切り札として、一枚の羊皮紙を、高く掲げた。
俺がこの一週間、魂を込めて書き上げた、「人間特区住民憲章」だった。
俺がそれを掲げた瞬間、沈みかけた夕日が雲間から差し込み、その羊皮紙をまるで後光のように、黄金色に輝かせた。
「――これより、この特区における、全ての住民の権利と義務を定めた、最高法規を公布する!」
俺は、その条文を、ゆっくりと読み上げていった。
「第一条、法の下の平等。何人も、人種、信条、性別によって差別されない」
「第二条、不当な労働の禁止。全ての住民は、安全な環境で働き、正当な報酬を得る権利を有する」
「第三条、自治権の付与。住民は、自ら代表者を選出し、『代議院』を組織する。特区内の立法、行政、予算に関する全ての事項は、この代議院の承認を必要とする」
どよめきが、今度は驚嘆の波となって、広場全体に広がっていく。
自分たちの未来を、自分たちで決められる「権利」。それは、彼らが人間領の、どんな国でも、決して与えられなかったものだった。
その時だった。
傍に控えていたクラウスが、静かに一歩前に出た。
「皆、聞いてほしい!」
彼の、凛とした声が、広場に響き渡る。
「俺は、この魔王軍で、たった一人、人間として受け入れられた。そして、知ったのだ。ここで問われるのは、種族ではない。個人の尊厳と、その働きだということを!」
彼は、俺が掲げる住民憲章を、力強く指さした。
「この憲章は、我々を縛るものではない! 我々を、一人の人間として、守るための、最強の盾だ!」
最初の“転職者”である彼の、魂の叫び。
広場の大半の人間は心を打たれ、希望の光を見出していた。しかし、後方の一角からは、まだ消えぬ疑念の囁きが聞こえる。「口では何とでも言える」「どうせ、俺たちは魔族の掌の上だ」。
その声を聞き届けたクラウスは、彼らに向かって力強く告げる。
「ならば、その疑いを、我々自身の手で晴らそうではないか! この憲章に定められた、最初の『代議院』選挙こそが、我々の未来を決める試金石だ!」
俺は、住民憲章に、静かに【契約魔法】を発動させた。
金色の光の粒子が、広場に集う数千の人々の間に、雪のように舞い降り、降り注いでいく。その優しい光は、彼らの不安げにこわばっていた顔を、驚きへ、そして、ゆっくりと希望に満ちた表情へと変えていくのが、壇上の俺からもはっきりと見えた。
◇
最初の住居区画が完成し、人間たちは、もはや労働者ではなく、誇りある「住民」として、新たな生活を始めた。
混沌から、確かな秩序が生まれた瞬間だった。
――だが、その光は、あまりに強すぎたのかもしれない。
その頃、人間側の王国。
「漆黒の天秤」の指輪を持つ、影の人物は、忌々しげに報告を聞いていた。
「…物理的な妨害は、失敗に終わりましたか」
影は、静かに呟いた。
「人間と魔族が、手を取り合うだと? 愚かな。混沌から生まれるのは、さらなる混沌だけだ。真の“秩序”とは、絶対的な力の下にのみ成立する。あの不浄の街は、我らが神聖なる世界を汚す“病巣”。早期に、浄化せねばなるまい」
その冷たい瞳が、机に置かれた、一枚の羊皮紙に向けられる。
それは、先日、魔王軍と締結されたばかりの、休戦協定書だった。
「ならば、法で攻めればいい」
影は、不気味な笑みを浮かべた。
「協定には、『合同調停委員会』の設置が定められていたな」
「次の委員会を、招集せよ」
「議題は、『魔王軍による、不法な我が国国民の拉致、および、強制労働について』だ」
敵は、俺が作った土俵の上で、俺に法廷闘争を挑んでくる。
より狡猾に、より強大になって。
本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
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