第22話 “職場”という名の戦場
人間の騎士クラウスは、契約に従い、オークの将軍ボルガが率いる重装部隊に、三ヶ月の「試用期間」として配属されることになった。
しかし、彼を待ち受けていたのは、あまりにもあからさまな敵意と、根深い偏見の渦だった。
「…ちっ、人間の裏切り者め」
「いつ、俺たちの背中から刺すつもりだ?」
オークの兵士たちが駐屯する、巨大な野営地。
そこに足を踏み入れた瞬間から、クラウスは侮蔑と敵意の視線に晒され続けた。
共同訓練では、誰も彼と組もうとしない。食事の時間には、彼の周りだけが、ぽっかりと空白になる。夜になれば、彼の寝床に汚物が投げ込まれていることも、一度や二度ではなかった。
だが、クラウスは、ただ黙々と耐えた。
誰に文句を言うでもなく、与えられた任務を完璧にこなし、一人、黙々と剣を振るい続ける。
その卓越した剣技――銀獅子騎士団で叩き込まれた、無駄のない、実戦的な剣捌き――は、遠巻きに見ていた一部の若いオーク兵士たちに、驚きと、わずかな畏敬の念を抱かせ始めていた。
だが、状況が好転する兆しは、まだ見えない。
このままでは、組織の規律そのものが乱れる。
報告を受けた俺は、すぐに行動を開始した。
俺は、ボルガ将軍の執務室を訪ね、一枚の新しい羊皮紙を提示した。
そこには、こう記されていた。
『職場における、人種、種族、その他一切の出自に基づく、ハラスメント行為の禁止について』
「…は、はらすめんと?」
ボルガが、怪訝な顔で聞き返す。
「嫌がらせ、という意味です」
俺は、きっぱりと言った。「部下の管理も、将軍の重要な職務です。クラウス殿の能力を正当に評価せず、ただ“人間”という種族を理由に不利益を与える行為は、我が魔王軍の軍規に違反します。これは、その事実を、全部隊に改めて通達するためのものです」
俺の言葉に、ボルガはしばらく唸っていたが、やがて、その豪快な顔に、ニヤリと笑みを浮かべた。
「…面白い。気に入ったぜ、その“はらすめんと”ってやつ。よし、マカベ。それは、俺が預かろう」
◇
その夜。
野営地の隅で、一人、固いパンをかじっていたクラウスに、小さな影が近づいた。
ゴブリンの情報部隊の者たちだった。
「…にいちゃん、腹、減ってんだろ? これ、やるよ」
彼らは、自分たちの食事の中から、焼きたての肉や、果物を差し出した。
俺の改革で、真っ先に正当な評価を受けた彼らは、俺が連れてきたクラウスに対し、他の種族のような偏見を持っていなかったのだ。
「…なぜ、私に?」
戸惑うクラウスに、ゴブリンは悪戯っぽく笑った。
「法務部長の旦那に、恩があってな。あんたの話も、いろいろ聞いてるぜ。人間界の話、もっと聞かせろよ!」
種族を超えた、ささやかな交流。
それは、クラウスにとって、この魔王軍で初めて感じる、人の温かさだった。
◇
翌日。
ボルガは、重装部隊の全員を訓練場に集めると、俺が作成した「ハラスメント防止規定」を、高らかに読み上げた。
そして、雷鳴のような声で、一喝した。
「いいか、てめぇら! こいつは、まだ“仲間”じゃねえ。だが、魔王様と、法務部長が認めた“客分”だ! 今後、こいつに不当な扱いをする者は、この俺が許さん!」
その一言で、野営地を支配していた陰湿ないじめは、ピタリと鎮静化した。
だが、燻っていた不満の炎が、完全に消えたわけではなかった。
その直後に行われた、模擬戦。
クラウスの相手として名乗りを上げたのは、古参のオーク兵の中でも、特に彼への敵意を剥き出しにしていた、一人の戦士だった。
試合開始の合図と共に、オーク兵は、憎悪を込めた雄叫びを上げ、クラウスに襲いかかった。
その一撃は、訓練とは到底思えない、殺意のこもったものだった。
クラウスは、冷静にその攻撃を見極め、最小限の動きで、ひらりとかわす。
功を焦ったオーク兵は、勢い余って、大きく体勢を崩した。
その、瞬間だった。
バランスを失ったオーク兵の巨体が、訓練場の端――切り立った崖へと、一直線に吸い込まれていく。
咄嗟にかわしたクラウス。
そして、崖下へと転落していく、オーク兵。
「グルァァッ!」
断末魔のような叫び声が、崖下に響き渡った。
訓練場は、静まり返っていた。
誰もが、信じられないものを見る目で、崖の縁に一人佇むクラウスを見ている。
その手には、まだ剣が握られていた。
静寂を破ったのは、誰かの、憎悪に満ちた叫び声だった。
「――やはり、人間が、我らの仲間を手にかけたぞ!」
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