第10話 兵站の法と、腹ペコのオーク
「――ボルガの奴が率いる、最前線のオーク部隊…その食料が、もうじき、完全に底をつく」
委員会での勝利の余韻は、ゼグスのその一言で、跡形もなく吹き飛んだ。
玉座の間の空気も、再び張り詰める。外敵との戦いを制したというのに、内側から崩壊の足音が聞こえてくるかのようだった。
「どういうことだ、ゼグス」
魔王ザイレムが、低い声で問う。「備蓄倉庫は、先の収穫で満たされているはずだが」
「はっ。仰る通り、中央の倉庫には食料が溢れております。しかし、それが前線まで届いていないのです。我が“補給部”は、現在、完全に機能不全に陥っております」
ゼグスの言葉には、彼の専門分野を侵されていることへの、明確な怒りが滲んでいた。
「…血流が、詰まっておるか」
魔王は、玉座の肘掛けに顎を乗せ、しばし瞑目していたが、やがてその真紅の瞳を、まっすぐに俺に向けた。
「法務部長マカベよ」
「はっ」
「我が軍の“血流”が、病に侵されておる。貴様のそのメスで、病巣を断ち切れ。これは、王としての命令である」
その言葉は、もはや俺を「奇貨」としてではなく、組織の根幹を託す、正式な「臣下」として扱っている響きがあった。
断る理由など、あるはずもなかった。
◇
翌日、俺はゼグスを伴い、魔王軍の物流を司る「補給部」の本部へと向かった。
そこは、城の地下深くに広がる、巨大な洞窟倉庫だった。無数の物資が山と積まれ、様々な種族の兵士たちが慌ただしく行き交っている。
だが、その活気とは裏腹に、全てが恐ろしく非効率だった。
正式な台帳などは存在せず、荷物の管理は壁に刻まれただけの、乱雑な傷。指示は全て口頭で、怒号と悲鳴が飛び交っている。
その混沌の中心に、ふんぞり返っている巨体がいた。
牛の頭を持つ、小山のようなミノタウロス。彼こそが、この補給部を長年牛耳ってきた、タウルス部長その人だった。
「んあ? なんだ、お前らは。ここは将軍様でも、俺の許可なく立ち入れる場所じゃねぇぞ」
タウルスは、大量の干し肉を頬張りながら、俺たちを値踏みするように見下ろす。
「魔王様直々の命令だ。補給部の内部監査を行う」
ゼグスが冷たく告げると、タウルスは鼻を鳴らした。
「監査だと? 我らは、何百年もこのやり方でやってきたんだ。何の問題もねぇよ」
その、あまりに協力する気のない態度に、俺は確信した。
この男、そしてこの部署は、真っ黒だ。
俺はゼグスの助けを借り、数日かけて、補給部の「監査」を開始した。
それは、困難を極めた。契約書など存在しないため、兵士一人ひとりから聞き取り調査を行い、口約束や、古くからの慣習といった、目に見えない「ルール」を洗い出していくしかなかったのだ。
そして、その下から現れたのは、想像以上に深刻な、組織の腐敗だった。
ゴブリンの斥候部隊は、数代前の族長がミノタウロスの一族と交わした「血の約束」を理由に、特定の部隊にしか、貴重な薬草を納入していなかった。
ガーゴイルの輸送部隊は、「伝統」という名目で、重い穀物より、軽くて見栄えのする宝石の輸送を優先し、その見返りに報酬を得ていた。
そして、決定的な証拠が見つかった。
タウルスの執務室の奥。魔法で巧妙に隠された、一冊の古びた出納帳。
そこには、どの部隊長から、どれだけの「賄賂」(希少な鉱物や、人間領から密輸した酒など)を受け取り、その見返りに、どれだけの物資を横流ししたかが、克明に記録されていた。
中には、日付や数量が、明らかに魔法で改竄された、偽の要求書まで含まれていた。
(…これは、軍隊じゃない。ただの、部族連合だ)
俺は、背筋が寒くなるのを感じた。
この組織は、法やルールではなく、個人的な恩義や、貸し借り、そして恐怖でかろうじて成り立っているだけだ。
聖剣の勇者などより、この構造的欠陥こそが、魔王軍の真の“敵”だった。
全ての証拠を手に、俺はゼグスと共に、再びタウルスの前に立った。
俺が、秘密の出納帳の内容を突きつけると、タウルスの顔から血の気が引いた。
だが、その動揺は、すぐに獣のような獰猛な怒りへと変わった。
「…それが、どうした」
「どうした、ではありません」
俺は、冷静に告げた。
「これは、魔王軍という組織に対する、重大な背任行為です。あなたには、部長としての資格がない」
その言葉が、最後の引き金となった。
タウルスの巨大な筋肉が、膨れ上がる。
「組織? 契約? 笑わせるな」
彼の瞳が、血走った。
「この軍の法は、ただ一つ…“力”だ。そして小僧、お前にはそれがない」
ミノタウロスの巨大な影が、俺を完全に飲み込んだ。
鉄塊のような拳が振り上げられる。
もはや、言葉が通じる相手ではなかった。




