第二十話 突きつけられた選択 ※挿絵
年が明けて、呉の諸葛狢が死亡したとの情報が朝廷内を駆け巡った。
先の新城の戦いで、額に矢を受け、重傷を負ったとは聞いていたが、一度は歩けるまでに回復したとされていただけに、誰もがそれを聞いて驚いた。
「諸葛狢は、近衛軍(皇帝の警護をする組織)の大将、孫俊により、殺害されたようだ」
首を傾げる私に、陛下は深刻な表情でそうおっしゃった。
孫俊といえば、確か呉の皇帝孫亮の血筋の者だ。
「新城の戦いに破れた諸葛狢は、保身のため、徹底的に敵になり得る者を始末しようとしたらしい。敗北の責任を問われることを恐れるあまり、役人や諸将にあらぬ罪を被せ、辺境に追放したり、時には打ち首にまでしたようなのだ」
「なんてこと……」
私は茶を注いだ器を、褥に腰掛けておられる陛下のもとへ運び、静かに差し出した。
陛下はそれを手に取り、一度は口元に近付けられたが、器を持った手を膝に置き、大きなため息をつかれた。
「その矛先が近衛軍にも及びそうになり、皇帝と結託した孫俊に逆に暗殺されたようなのだ」
陛下の隣に腰をおろし、私も重いため息をついた。
もともと周囲の反対を押し切って新城に侵攻した諸葛狢が、負けて責任を追及されることは免れないこと。
だが、それを恐れるあまり、罪のない臣下の者たちの首まで斬るなんて。
「同じく戦に敗れても、味方に刃を向けた諸葛狢と、恩を売った司馬師。このような状況に立った時、その者の器の違いが明白になるな」
そう言って、陛下は少し冷めた茶を一気に喉に注がれた。
確かに、東興での戦いに敗れた際、子元(司馬師)様は武将達を庇うことで強い信頼を得られた。
でも、その敗戦でさえ、彼の計画の一部であり、そのために犠牲になった兵が多くいたことを思い返すと、私はやりきれない気持ちになった。
「いきさつに意味はない。結果的に司馬師は、信頼を得ることに成功したのだ。それが上に立つ者の器というものであろう」
遠くを見つめながらそうおっしゃる陛下の横顔を見て、私は訳も無く大きな不安を感じた。
私は陛下の背後からそっと手をまわし、逞しい体を抱きしめた。
何となく陛下が遠くに行ってしまわれるような、そんな気がして哀しくなったのだ。
「近々、あの者を牢から出す」
広い背中に寄せた耳から陛下の低い声が響き、私は全身を強ばらせた。
陛下のおっしゃるあの者というのが、男鹿のことを指していることが瞬間にわかったからだ。
「蜀が羌を味方に付けて、南安に向かっているらしい。あの者には、能力を無駄にして牢で過ごさせるよりも、戦力となって働いてもらうつもりだ」
新城の戦いが終わって、日が経たないというのに、既に次の戦が近いと聞いて、私は思わず固く目を閉じ、陛下の体を抱く手に力を込めた。
呉ほどの国力は持たないものの、蜀も我が国に敵対する国のひとつ。
羌とは、もともとは各地を転々としていた遊牧民で、他国の戦に参戦する事で利を得てきた一族だ。
確かに、先の戦いの痛手もまだ癒えていない今、そんな二国を相手に戦うには、一人でも有能な人材を補充したいところだろう。
それに例え彼が戦場で命を落としたとしても、彼を慕う兵たちも戦死であれば納得せざるを得ず、反感も最小限に抑えられる。
つまり、兵らの反感を抑えながら罰を与える事が可能なのだ。
その周到なやり口は、おそらく子元様のお考えによるものだろうと思われた。
そのような事を考えながら、陛下のお顔を見ると、相変わらず頬杖をついて遠くを見つめられる横顔は、男鹿の身を案じておられるようにも見えた。
それからしばらく経ったある日、私のもとに皇太后様の遣いの方がみえた。
今すぐ馳せ参ぜよとのことであったので、私は取る物も取り敢えず紅玉を連れて、皇太后様のお部屋へと向かった。
お部屋の前で紅玉を待たせ、私は皇太后様に仕える官女に導かれ、お部屋の奥へと入って行った。
昼間にも関わらず、厚い天幕の降ろされた室内は暗く、以前伺った時とは印象が大きく異なっていた。
そして、部屋の奥へ進むに連れ、吐息混じりの喘ぐような女の声が耳に入ってきた。
「お連れいたしました」
灯りが透けて緋色に光る天幕越しに官女が声を掛けると、喘ぎ声の主は大きなため息を漏らした。
「お入り」
中から響いてきた声を聞いて、官女は私に向かって頭を下げると、静かに部屋から出て行った。
「失礼します」
戸惑いながら私は天幕を少し捲り、そこからそっと内部を覗いた。
そして、そこにあった光景に目を見開き、言葉を失った。
そこには、褥の中で生まれたままの姿で戯れる皇太后様と子元様がいらしたのだ。
立ち尽くす私の目の前で、皇太后様は子元様の顎に手のひらを添え、唇を絡め合わせて見せられた。
子元様の手は、皇太后様の豊満な胸を執拗に弄り、それに反応して皇太后様は時折甘い声を上げられた。
「ふん。何を驚いておる。生娘でもあるまいし」
思わず背を向けた私に、皇太后様の冷たい声が投げかけられた。
「下がってよい」
皇太后様がそうおっしゃると、子元様は全裸のまま、褥から降り、天幕の外へ出ていかれた。
去り際、にやりとした顔を見せられた子元様に、私は身を縮めた。
「そなたもこうやって陛下に可愛がられておるのであろう?」
皇太后様はそう言って、そばに脱ぎ捨てられていた深紅の寝衣を羽織り、腰紐を軽く結ばれた。
「なのに、そなたには一向に子ができぬのう」
褥に腰を降ろされた皇太后様は、乱れた長い髪をかきあげ、妖艶な笑みを浮かべられた。
「陛下に子種がないのかと思っておったが、どうやらそなたに原因があったようじゃな」
そう言って皇太后様は、私に背を向け、褥の脇に置かれた卓上から盃を手に取ると、ごくりとその中身を飲み干された。
「皇后にお子ができた」
空になった盃を再び卓に置き、皇太后様は私のほうへ向き直られた。
顔の半分を覆う前髪の隙間から、切れ長の美しい瞳がまっすぐ私を見ていた。
その言葉に私は再び目を見開き、唾を呑むと喉がごくりと鳴った。
直後、真っ白になった頭の遠いところで、皇后様の声が聞こえた気がした。
『陛下の子を生んでみせる』
同時に、以前、私の部屋にいらした時、そうおっしゃった皇后様の幼さの残るお顔が鮮やかに目に浮かんだ。
そしてその瞬間、私の中で例えようのない感情が激しく渦巻き、気が付けば頬を涙が伝っていた。
「悔しいか? 悔しいのう」
皇太后様は、そんな私の反応を楽しむように、笑みを浮かべ、上目遣いにそうおっしゃった。
(違う。悔しいんじゃない)
そう心の中で叫びながらも、私は次々と溢れ出す涙の理由を見つけることができなかった。
「その悔しさ、晴らしてやろう」
そう言って、皇太后様は今度は卓上に置かれた小さな袋を手にとり、私の目の前に差し出された。
黒い絹製の、紐で口を絞った小袋は、薬袋のようだった。
差し出されるまま、それを受け取った私は、濡れた瞳で中身を問うた。
「それを皇后に飲ませよ。さすれば子は流れる」
皇太后様の言葉に、私は思わず薬袋を床に落とし、小さく首を左右に振った。
「そのようなこと……できませぬ」
皇太后様は大きくため息をつきながら身を屈めて薬袋を拾い上げ、再び私の震える手にそれを握らせようとされた。
「できませぬ!!」
叫ぶようにそう言って、私は袋を叩き落とし、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
しばらくそのまま皇太后様は、泣きじゃくる私を見下ろしておられた。
「異国から来たあの男」
皇太后様の発せられた言葉に、私は一瞬びくりとした。
「処分保留で牢に入れられているあの男。陛下の妾に手を出したとなれば、即、処刑かのう」
目を見開き顔を上げた私の前に、口角を引き上げられた皇太后様の唇が見えた。
「皇后が言っておった。北の池でそなたとあの男が逢い引きをしておったと」
「誤解です!!」
思わず立ち上がった私は、皇太后様の腕に掴み掛かり、叫ぶように訴えかけた。
「一時期はあの男の妾であったのだ。体が恋しがっても仕方あるまい」
私の手を払った皇太后様は、前髪をかき上げながら探るような目線を私に向けられた。
無実を訴えかけても意味がないことを悟り、私はただただ涙を流しながら何度も首を振り続けた。
「あの男の命を救いたければ、どうすればよいか……聡明なそなたならわかるな?」
皇太后様は冷たい笑みを浮かべ、再び私の手のひらを強引に開き、薬袋を握らせられた。
「皇太后様は皇后様を可愛がっておられたのではないのですか? なのになぜ、このような惨いことを……」
私は震える声で皇太后様へ問いかけた。
新城の戦いが一時絶望的に思われた時、皇太后様は敬仲様に近付き、その娘である皇后様の意に添って、陛下が私のもとを訪れることを諫められたはず。
なのに皇后様のお腹のお子を亡き者にされようとされるなんて……。
「……あ……」
そこまで考えて、私は先ほど去って行かれた子元様の笑みを浮かべたお顔を思い出した。
皇太后様はご自分が誰の味方であるかを知らしめるため、わざと子元様と戯れる姿を私に見せられたのだ。
「張緝(敬仲)はもう用済みだ。近い将来、魏は司馬家のものとなる。今、陛下に跡継ぎができるのは都合が悪い」
皇太后様はふふと笑い声を上げて私の顎を持ち上げ、鼻先が触れる程にお顔を近付けると、ささやくようにおっしゃった。
「そなたがこれを成し遂げれば、あの男の命は保障しよう。拒めばあの者とそなたとの関係を司馬師に伝え審議にかける。ただでさえ首の皮一枚で繋がっているような状態なのだ。その上、皇帝の妾に手を出したとなれば、あの男、おそらく無事では済むまい」
「なんてこと……」
私の震える唇に指でなぞるように触れ、皇太后様は舌舐めずりされた。
「皇后も愚かな。嫉妬に狂ってそなたの不実をわらわに訴えたつもりが、己の首を絞めるために利用されようとはな」
そう言って、高々と室内に響き始めた皇太后様の笑い声を、私は顔を伏せて泣きながら聞いていた。
私が皇太后様のお部屋から出ると、紅玉が心配そうな表情を浮かべて駆け寄って来た。
「奥様、大丈夫ですか? なかなか出ていらっしゃらないので、心配しました」
目に涙を浮かべて袖を掴む彼女に、私は思わず寄りかかるように泣き崩れた。
「奥様……?」
驚いたようにそう言って、紅玉は小さな体で私を支えるように抱きしめてくれた。
「……どうしよう。紅玉……私はどうすればいい?」
私は紅玉の腕の中で、子どものように泣き続けた。
そんな彼女の綿の袖を握る手の中には、黒い小袋があった。




