29 落ち込むな、戦え
頭が真っ白になるとはこのことだ。
思っていないところに最悪の光景、頭を後ろ手に殴られたような、背中からナイフを刺されたような衝撃を受けた。
自己防衛本能なのだろうか、私は思考が停止するのを感じる。
中庭から、窓越しに見える二人。
エルはあんなに彼女を嫌っていたはずなのに、なんだかとっても気を許した顔で笑っていた。
彼女は、あんなにエルに怯えていた様子だったのに、気安い顔で微笑んでいる。
二人は、とても仲が良さそうだ……。
「フィリー、どうした」
ふと、知っている声がした。
「顔が真っ青だ。何を見て……」
息を呑む気配がする。
その後、そっと手を取られた。
「あんなもの、見るんじゃない」
そう言うと彼は、ふわりと私を横抱きに抱え上げた。
ようやくここにきて、私は思考を取り戻した。
「っ……!? えっ、何」
「あっちから見つけられても嫌だろう。他の場所に移動しよう」
「え、あの、ええ? ニューウェル卿!?」
私を抱きかかえているのは、ニューウェル卿だった。
なぜここに……中庭、中庭だから? ここは彼の縄張りなのだろうか。
「だ、だめです! こんなところ、他の生徒に見られたら……」
「闇魔法で目隠ししてるから、誰にも見えない。この間、あいつとフィリーの前で俺が使ったやつだよ」
そういえば先日、エルと私の前から、闇魔法で姿をくらませていた。
あれは、姿を消しているだけで、普通に歩いて移動していたのか。それはそれで衝撃だ。
いやでも、そうじゃなくて。
「でも、あの、降ろしてくださいっ」
「もう少ししたらな」
「ニューウェル卿……っ!」
男の人に抱きかかえられるなんて、恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
それに、ニューウェル卿は、私の婚約者でもなんでもないのだ。こんな距離でいるなんて……。
(そういえば入学式の日、エルは彼女のこと、こうやって運んでた……)
いらないことを思い出して、じわっと目頭が熱くなる。
わ、私だって、エルに抱き上げてもらったことなんてないのに。あ、でも、今ニューウェル卿に抱き上げられてしまっている。浮気じゃないけど、でも、でも……。
「なんか混乱してるみたいだから、あんまり考え込まない方がいいんじゃないか?」
百面相をしている私の顔を見て、くはっと笑いながらニューウェル卿がベンチに座らせてくれた。
よく見ると、今度は裏庭にたどり着いていた。彼と話をする場所は、やはりお庭らしい。
「えーと、とりあえず、落ち着け」
「どうやって?」
「それ、俺に聞いてくるの?」
「ごめんなさい、なんだか、流れで」
「思ったより元気そうだな。よかった」
ニューウェル卿が、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
じわりと目頭が熱くなって困っていると、私の膝の上にいた白猫が抗議するようにニャゴニャゴ鳴いていた。
「そいつ、俺のこと嫌いみたいなんだよなぁ」
「白猫さん、そうなの?」
「なーん」
白猫は、不満そうな目でニューウェル卿を見ている。彼の何が気に入らないのだろうか。不思議だ。
「目眩しの魔法、まだかけたままだから。他の生徒の視線は気にしなくて大丈夫だ」
「……ありがとうございます」
「で、何。あいつ、浮気してるのか?」
「浮……」
はっきりと言われて、血の気がひく。
やっぱり客観的に見てもそうなのだろうか。
「普通、婚約者でもない令嬢と二人きりで、空き教室で喋ったりしないだろう」
「……」
「その反応、あんたは知ってたっぽいけど、公認なのか」
「そんな訳……!」
公認なんて、そんなことあり得ない。
涙目で睨む私に、ニューウェル卿は眉を上げる。
「あの令嬢、上位貴族なのか?」
「……男爵令嬢です」
「それじゃあ、あいつの正妃にはなれないな。いいとこ愛妾ってところだろう。公爵令嬢であるフィリーの地位は揺るがない。フィリーさえ認めれば、あいつらは公認の仲だ」
「……」
それは、エルに振られるよりずっと嫌な未来だ。
仲のいい二人を見ながら、正妃としての職務をこなす。
地位を求めてエルと婚約した訳ではない私にとって、それはただの地獄だ。
「ニューウェル卿は意地悪なんですね」
「ただの慰めを口にして欲しいなら、そうするけど」
「……必要ありません」
ぷい、とそっぽを向く私に、ニューウェル卿はけらけら笑う。
「うん。あんたは落ち込んでるより、そうやって怒ってる方が向いてるよ」
「なんですか、それ」
「で、どうするんだ。仕返しするなら手伝うぞ? 俺、あいつのこと嫌いだし」
「……仕返しなら既にしてたんですけど、全然効果がなかったみたいです」
「おお? 手が早いな。何したんだ?」
聞かれて、私は顔に熱が集まるのを感じる。
今日は1日、残念な精神状態で色々やっていたけれども、正面から聞かれると相当恥ずかしいことを繰り返していたような気がしてきた。
と、とてもニューウェル卿には言えない……。
「……その顔、何をしたんだよ」
「聞かないでください!」
「いや、無理言うな。こんな気になることってなかなかないぞ」
「絶対に言いません!」
頰を膨らませて頑なな態度をとる私に、ニューウェル卿は堪えきれなかったように、再度くはっと笑い出した。
笑う彼を見ていたら、なんだか少し気持ちが落ち着いてきたようだ。なぜか白猫は不満そうに、ぐずぐず唸っていたけれども。
「フィリーはどうしたいんだ? あいつを問い詰めるにしても、最終的に取り戻したいのか捨てたいのかで対応は変わるだろう」
「と、取り戻す……捨てる……?」
「そうだ。見なかったふりをする気はないんだろう?」
する気がないというよりは、無理だ。
「そうすると、取り戻すのか捨てるのか、決めた上で動かないとな。どっちを選ぶにしても、場合によっては覚悟が必要だし」
ニューウェル卿はなんでもないことのように話す。
「まず、可能性は低いけど、あいつが実際には浮気をしていなかった場合な。これは、浮気と思われるような不用意な言動を慎むよう、締め上げれば終わりだ」
「……抱きしめあっている二人が浮気してない可能性ってありますか?」
「おい、そんなところまで見たのか……」
げんなりした顔でこちらを見るニューウェル卿に、私はより沈む込む。
「えーと、ほら、魅了魔術を使ったとか」
「闇魔法の禁術じゃないですか。そんなの使う子、今日日いません」
第一王子にそんなもの使ったら、お家断絶だ。
「それぐらいしか思い浮かばないかったんだよ、悪かったな。あいつが2年以上フィリーに骨抜きなのは、この国で知らない貴族はいないからな」
「ええ!? そこまで広まって……!?」
「奴はフィリーを庇って刺されてるからなぁ。第一王子が庇った相手はどんな関係の何某だって、そりゃあ噂になるさ」
彼はけらけら笑っているけれども、私は恥ずかしくて赤くなったり青くなったりだ。
次は、2年以上溺愛された上で捨てられた女と噂されるのだろうか。それでなくても傷ついているのに、踏んだり蹴ったりだ。
「じゃあ本題の、あいつが本当に浮気をしていた場合な。奪い返したとしても、同じことを繰り返す可能性は高いと思うぞ。フィリーとの仲が冷めていた訳でもないのにふらついたクズ野郎ってことだし」
「……」
「あいつを捨てるなら、フィリーの次の婚約者探しがもっぱらの課題だけど……」
「修道院に行きます」
「!?」
ぎょっとするニューウェル卿の横で、私は固く手を握り締める。
「うん、フィリー。落ち着け、早まるな」
「色々考えてくださって、ありがとうございます。修道院に行くつもりで、頑張ります」
「いや、フィリーなら引くて数多だから。若いし、原因があいつの浮気ならなおさら……」
「考えられないんです」
私の言葉に、ニューウェル卿が息を呑む。
「他の人なんて考えられないんです。だから、もういいんです」
「……」
「修道院も、悪くないかなって」
そう言って俯くと、ニューウェル卿は、しばらく口を閉ざして、何かを考えていた。
ふと、握り締めていた手に、彼の手が添えられる。
不思議に思ってされるがままになっていると、彼は私の手にそっとキスを落とした。
「!? ニューウェル卿!?」
「あいつと別れたら、俺がもらってやるから」
「な、何を言って……」
「修道院なんかに、フィリーは勿体無いからな」
目を白黒させる私に、揶揄うように彼は笑いかける。
「あいつとだって、無理矢理婚約させられたんだろう? 修道院に行くぐらいなら、俺が権力を使って、フィリーの次の婚約者の地位をもぎ取ってやろう。初恋ぐらい簡単に忘れさせてやるよ」
「……!? な、な、な」
「フィリーは案外抜けてるよなぁ。こんな話を俺の前でするなんて」
その目の奥に、獲物を見るような仄暗い光を見て、私は冷や汗をかく。
「俺はあいつの従兄弟だからな。知らないのか? うちの血筋は、欲しいものを手に入れるために割と手段は選ばないと言われてる」
「権力を持たせたら駄目な一族……!?」
「そうかもな。まあ残念なことに、そんな俺達はこの国の最高権力者だ」
至極楽しそうに私を見るニューウェル卿に、私は震えるしかできない。
「あいつと別れたら、お前はもう俺の婚約者だ。その覚悟で戦ってこい」
「ど、どういう……」
「自暴自棄になるなってことだよ」
ふと、優しい笑顔で言われて、私は毒気を抜かれる。
「浮気するようなクズ野郎と婚約解消したところで、お前の価値は下がらない。修道院でクズ野郎だけを思って生きる必要もないから、そんな暇は俺が奪ってやる」
「そんな身勝手な」
「権力者は身勝手なもんだ。それに、俺になんでもできると教えたのはお前だ、フィリー」
「え? そんなこと……」
「俺の未来は可能性でいっぱいなんだろう?」
目を丸くする私に、彼は優しげに微笑む。
「……なあフィリー」
ニューウェル卿の手が、私の頰に添えられた。
普段ならその手を跳ね除けるのだけれども、真剣な目で射すくめられて、私は動けない。
「事情次第とはいえ、相手が悪いんだ。落ち込むな、戦え。自分を粗末にするな。……どうしても欲しいなら、修道院行きなんかじゃなく、全て分かった上で欲しいものをもぎ取ってこい。よそ見なんかできないくらい躾けろ。フィリーはそういう前向きな女だろう?」
彼の言うことは、正確ではない。
第一王子相手の婚約解消は、貴族令嬢として傷をもたらすものだ。
けれども、それを分かった上で、私の価値は下がらないと言ってくれているのだ。
落ち込むなと、戦えと、鼓舞してくれている。
「なんでそんなに優しいんですか」
「誰かが、優しくしろって言ってたからな」
「こんな時に実践するのは卑怯です」
「俺に絆されたなら、本当に貰ってやるよ?」
ふふ、と笑いながらぽろぽろ涙をこぼす私の頭を、ニューウェル卿は撫でてくれた。
彼は本当にいい男だ。正直、エルと仲良くなっていなかったら、素直に惚れてしまっていたと思う。
「この借りはいつかお返しします」
「へえ、楽しみだな。無理難題を吹っかけてやろう」
「ちょっと」
そうやって彼と笑いあっていると、自然と涙が止まっていた。
ふと、彼がため息をつく。
「こんなお人好しは今回限りだ。次はないから、覚悟しろよ」
「……?」
「分からないならいい」
ぽん、と再度頭を撫でられた。
最後はよく分からなかったけれども、彼に勇気づけられたのは確かだ。
なお、笑顔になった私の膝の上で、白猫はやはり不満そうに、ニャゴニャゴ唸っていた。
そして同時に、一匹の黒猫が茂みの影から私を見つめていたけれども、私はやはり気が付かなかった。




