26 見てしまった私
しばらく動けなかった。
ずっと恐れていたものが目の前にあって、目の前が真っ暗になる。
目を開けていても、あまりに絶望すると本当に目の前が真っ暗になるって本当だったんだ。
最近毎晩夢に見る、二人の寄り添う姿。
それでも、考えないように、振り払うように、目を塞いできたのに、現実でも目の当たりにして、ああやっぱりと思う。
黒い気持ちが、腹の底から湧いてくる。
腹黒宰相である父の血なのだろうか、彼女に対するありとあらゆる嫌がらせが頭の中に浮かんできていた。
物を隠して、授業で嫌がらせをして、嘘の証言を作って、それとなく近づかせた男に弄んでもらって、男爵家に対して公爵家の力を使って……。
でも、夢の中の私と、一つだけ違うことがあった。
私は、私の気持ちを自覚している。素直にそれを受け止めている。
あの人が好き。あの人が、エルが、私だけを見ていないことが、こんなにも苦しい。
ピンクブロンドの彼女と一緒にいる方が、エルは、幸せなの……?
「ブランシェール公爵令嬢」
囁くように声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。
私がそれ以上、何か反応を見せる前に、そっと視界が塞がれた。
「これ以上見ない方がいい」
視界を遮るように立っていたのは、バジョット卿だった。急にエルの傍にいるようになった私に、警戒していた人……。
「……自業自得だと、思ってるんですか?」
「……いや、私は……」
「私が、エルを嫌ってたから。だから、こんなふうに、エルに要らないって思われても……」
「ブランシェール公爵令嬢」
小さいけれども、私を静止する強い声だった。手を掴まれて、体が固まる。
「無理はしなくていい。あなたは悪くない」
夢の中と違って、彼は優しかった。
労わるようなその目線に、私ははらはらと涙が溢れるのを止められない。
「普段あまり優しくないのに、こういう時だけ優しいのは、ずるいと思うんです」
「憎まれ口を叩けるなら、心配ありませんね」
「意地悪ばっかり言って」
「……あなたにだけです」
くすりと笑いが漏れる。けれども、涙は止まらなかった。
「……ごめんなさい。せっかく、笑わせようと、してくれてるのに……」
「気にしないでください。誰か来ないか見てますから」
そう言うと、彼は私にハンカチを差し出して、そのままくるりと背中を向けてしまった。
……私の方を見ないように、気を遣ってくれたらしい。
私は、彼の優しさに甘えることにした。
というか、それ以上考える余裕がなかった。
悲しくて悲しくて、声を殺して、彼の背後で疲れ果てるまでわんわん泣いた。
放課後でよかった。授業があったらサボってしまっていただろうし、その結果、エルが私を探しに来てしまっていたと思う。
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「少し落ち着きましたね」
「はい、ありがとうございます」
私の顔を――正確には目元を覗き込んでくるバジョット卿に、私は若干の照れを感じながら微笑む。
すると、バジョット卿は、頰を少し赤くして、でも、いつもと違ってはにかむように笑ってくれた。
「氷、とても助かりました。これが炎属性の魔法なのって意外です」
「炎属性の魔法は、熱を操る魔法でもありますから。得意属性だと分かってから色々勉強していてます」
「そして私は、その恩恵に預かったんですね」
あれから私は散々泣いていたので、目がすっかり赤く腫れ上がってしまっていた。
こんな顔では帰りの馬車の待合所に行くのも憚られる。
どうしようかと悩んでいると、バジョット卿が、得意の炎属性の魔法で氷を作ってくれたのだ。
そして、貰った氷で目を冷やしてなんとか、泣いた後が分からないくらいに目の周りも落ち着いてきたところだった。
「バジョット卿。あの、今日のことは……」
「誰にも言いません。何かあったら相談してください」
柔らかく笑うバジョット卿に、私は安心する。
不器用で真っ直ぐな彼は、きっと本当に誰にも言わないのだろう。
「ありがとうございます。バジョット卿がいてくれて良かった」
「バージルでいいです。うちは兄弟が多いので、バジョットは沢山います」
「……バージル卿?」
「はい」
ふわりと笑う彼に、私のことも名前で呼ぶように勧める。
「分かりました、フィルシェリー嬢」と言うと、彼は笑って馬車まで送ってくれた。
今日見たものについて、何も言わないでくれたのがとてもありがたかった。彼は本当にいい人なんだと思う。
馬車に乗って家路に着いてみて、私はふと気がついた。
そうだ、エルは毎朝私を迎えにくるのだ。明日の朝だって、もちろん来てしまうだろう。
どうしよう、会いたくない。どうしたら……そもそも、どんな顔をして会えばいいのだ。
エルのことを思い出すだけで、あの現場が脳裏にチラついて涙が浮かんでくるのだ。この感情の波が、明日には落ち着くとは到底思えなかった。
出口を探してぐるぐると思考を続けていると、すぐに家に着いてしまった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……マリアぁ」
結局、部屋に着いて、侍女のマリアンヌの顔を見るなり、私の涙腺は崩壊してしまった。
マリアンヌは、抱きついてわんわん泣いている私に目を丸くしながら、背中をさすってくれた。
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今日は大変なことが起こった。
私の愛しのフィルシェリーお嬢様が、家に帰って私の顔を見るなり、耐えられなくなったように泣き出したのだ。
「……エルが浮気してたの」
そう呟くと、お嬢様はさめざめと泣き伏した。
あれだけお嬢様に夢中なラファエル殿下がお嬢様を裏切るなど青天の霹靂だったけれども、なんとお嬢様自身が、他の女と長く抱きしめ合っている殿下を目撃したのだという。
私は自然と、目が吊り上がっていくのを感じた。
ここ数年でお嬢様がこんなに泣いていたのは、ラファエル殿下と婚約した日と、ラファエル殿下が刺された日くらいだった。そして今回は、ラファエル殿下が浮気したことによって、泣いていらっしゃる。こんなにお嬢様を悲しませるなんて、もう婚約を解消した方がいいと思う。
「お嬢様。王族に対してこちらから婚約破棄はできません。向こうから破棄されるのは屈辱的ですから、解消に持ち込みましょう。ブランシェール公爵なら、こてんぱんにやってくださいます」
「マ、マリア、待って。私、まだそんな……」
「お嬢様をこんなに泣かせる輩に、もう生きている価値はありません」
「マリア!?」
お嬢様は、マリアは穏健派だと思ってたのに……と震えている。おそらく私は今、鬼のような顔をしているのだと思う。
「今までは、ラファエル殿下がお嬢様をこよなく愛していらっしゃるから、目をつぶってきたのです。よそ見をするなら容赦する必要はありません」
「……よそ見」
「そうです。可愛いお嬢様を手に入れてまだ3ヶ月も経っていないのに、他の女に懸想するなんて、この先の苦労が偲ばれます。切り捨てるなら早いに越したことはありません」
「懸想……」
じわーっとお嬢様の目に涙が浮かんでくる。
さっと冷やしタオルを渡すと、お嬢様は、「マリアはこんな時でも美に厳しい」と苦笑しながら、そのタオルで目を覆った。明日、泣き腫らした真っ赤な目でお嬢様を送り出す訳にはいかない。お嬢様の美しさを保つのも、私達侍女の仕事なのだ。
「……お嬢様は、どうなさりたいのですか?」
態度を和らげた私に、お嬢様はほっとしたように表情を和らげる。
「……エルが好きなの」
「はい」
「私だけを見てほしいけど……。男の人は、一度他の女の人に興味を持ってしまうと、ずっとふらふらしちゃうのかしら」
難しい質問だ。
お嬢様の力にはなりたいけれども、こればかりは答えがあるような……ないような……。
「理由によるところですね」
「理由」
「例えば、長く不仲が続いている際のよそ見なのか、仲良くしている最中の浮気なのかで変わってくるかと」
「……仲良くしている最中の場合は?」
「……何か事情がおありとか……なら……」
目を逸らす私に、お嬢様はまたぽろぽろと涙を零している。
「事情って……」
「だ、抱きしめないと誰か殺されるとか?」
「そんなことある!?」
「……ですわよねぇ」
私は、声もなく泣いているお嬢様の背中を優しく撫でることしかできない。
「……お嬢様。何か、私達には分からない理由がおありなのかもしれません。まずは直接聞いてみて、それから判断しても遅くありませんよ」
バジョット卿という証人もいるのだ。直接聞いて話が決裂したとしても、ブランシェール公爵なら、なんとでもしてくれるだろう。
ただし、ブランシェール公爵にこの話をするのは、お嬢様がラファエル殿下を捨てる覚悟をなさってからだ。
ブランシェール公爵は情に薄いように見えてお嬢様には甘いので、私と同じく、ラファエル殿下がお嬢様を大切にしているうちは口を出さないものの、そうでないと分かった瞬間、お嬢様のためにさっくり殿下を切り捨てにいくだろうから。
「……マリア。あのね、男の人の気持ちを掴むには、どうしたらいいの?」
また難しい質問が飛んできた。
正直、ありのままのお嬢様が美しく清廉で可憐すぎて、これ以上工夫するところがない。
お嬢様は親しい相手には、たまに不意打ちで「好き」とか「ありがとう」とか囁いてくるし、何かしてもらうとニコニコ満面の笑みだし、普段冷たい表情なのに、例えば私の顔を見るだけで気を許した表情になるし、とにかく既にめちゃくちゃ可愛らしいのだ! これ以上どうしたらいいのだ。
「そうですね。……何か、好きな物を差し入れるとか?」
「好きな物?」
「物でなくともいいのですが、楽しい気持ちの時によく会う人には、好ましい印象を抱くそうですよ。例えば先日、遠距離恋愛をしていたある伯爵家の侍女が、恋文を運んでいた運び屋と結婚しました」
「!? そ、その遠距離恋愛のお相手と、じゃなくて……?」
「はい。恋人には長く会っていなくて、先が見えなくなっていたそうですよ。それよりも、楽しい手紙を運んでくれる運び屋に好印象を抱いたそうです」
お嬢様は驚きのあまり、目を白黒させている。
「とにかく、好きなものでいっぱいにして、甘やかすのです。お嬢様に会う度に、楽しい気持ちでいっぱいにして夢中にさせて、でも、安心させてはいけません。他の女に目をやるならどこかに行くわよ、という牽制も必要です」
「牽制……」
難しいわ、と呟くお嬢様に、私は微笑む。
「まあ、こういうのは小手先のテクニックです。それより、まずはお互いの気持ちに素直に向き合って、お話をしてみるのがいいと思いますよ」
本当にただの浮気でしたら、後はお任せください。
そう言ってにっこり笑うと、お嬢様は苦笑しながら、「ありがとう」と言った。




