【ヴィオル視点】なんという失態……!
「ありがとう、ヴィー!」
輝くような笑顔で寄ってきたセレン嬢が、俺をぎゅうっと抱きしめる。
次いでその柔らかな手が、俺の両頬へと添えられた。
ヒゲの付け根から毛の流れに沿ってセレン嬢の親指が優しく優しく頬を撫でていく。
これは……なぜだか気持ちがいい。表情筋が死んでいると言われる俺だが、生き返ってしまいそうな心地よさだ。頬を包むセレン嬢の手のひらが温かくて、微睡んでしまいたくなる。
人でいる時は顔など触られようものなら咄嗟に中級魔術くらいは浴びせてしまいそうだが、猫になるとなぜ許せてしまうんだろうなぁ。それともセレン嬢が特別なのか。
思考が段々と薄らいでいく中、セレン嬢の手がゆっくりと動いて俺の耳全体をふんわりと手のひらで包み込む。耳の付け根あたりを指で優しく揉まれると、もうなんだか色々なことがどうでもよくなってきた。
昨日も今日もよく頑張ったしな……これくらいの褒美はあってもいいだろう。
「どうかしら、気持ちいい?」
「うむ……」
俺の耳にセレン嬢の穏やかな声が優しく響いて、ますます気持ちがリラックスしてくる。なんて気持ちがいいんだ……。
「うふふ、目を閉じて顔もトロンとしているから、きっと嫌ではないわよね」
俺はカッと目を見開いた。
今、顔もトロンとしていると言ったな!? そんなだらしない顔をセレン嬢に見せるなどあってはならないだろう、いい大人として!
「あら、嫌だった? わたくし、風の本を探すついでに、猫ちゃんの喜ぶ撫で方の本も借りてきたの。ほら、こうして頭のてっぺんからしっぽの先まで、毛並みに沿って手のひら全体でやさしく撫でるのも、気持ちがいい筈なのよ?」
あああ〜〜〜……、くそぅ、本当に気持ちいい……!
そんなところでまで、研究熱心さを出さないでくれ……。時々フェイントで首辺りまで撫でてくるのは反則だろう。
「あと、ここも気持ちいいんですって」
肩甲骨から腕の付け根までを、ごく軽い力でセレン嬢の指先が押すようにマッサージしてくれる。凝り固まった肩の凝りがほぐれていくような心地よさに、俺の理性はもはや崩壊寸前だ。
「昨日は徹夜させてしまったから、少しでも気持ちよくなって疲れが取れてくれると嬉しいのだけれど」
あああ〜〜〜……なんという至福の揉みごこち……猫にもマッサージは効いてしまうのか……!
どこまでも優しく揉みさすってくるこの手が憎い。止めようとみじろぎしてみたが、気持ちよすぎて体がナデナデを求めてしまっている。もはや思考がうまく働かない。セレン嬢の優しさがもたらす容赦ない責めに、俺の目蓋はあっけなく負けを認めた。
***
「ん……?」
なんだ? ここはどこだ……?
目を開けたら、すぐ側でセレン嬢が優雅に紅茶を飲んでいた。
「ヴィー、起きたの?」
慌てて起き上がろうとして、よろける。なんと前足が痺れていた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。変な寝方をして足が痺れたらしい」
「猫ちゃんでも足が痺れたりするのね」
笑わないで欲しい。俺だって今知った。
というか、撫でられているうちに気持ちよくなって寝てしまうとは、なんたる失態。魔術が解けてしまわなくて良かった。
「俺はどれくらい寝ていたんだ?」
「ええと、二時間くらいかしら」
「もうセレン嬢は寝る時間じゃないか! すまん……!」
「いいのよ。可愛い寝顔をたっぷり見たから、わたくし的には癒されたわ」
「だが」
「昨日は無理をさせてしまったもの、気にしないで。それより今日のおやつはブールドネージュよ。食べて行くでしょう?」
「ブールドネージュ……初めて聞くな」
ひと口で食べられそうに小さくて、粉砂糖を纏ったまんまるの見た目が可愛い菓子だ。粉砂糖で中身が分からないが……クッキーなのか、チョコレートなのか、それともフィナンシェのような焼き菓子なのか。いずれにしても旨そうだ。
しかし……。
俺の耳もしっぽもシュンとうなだれる。
「爆睡してろくに教えもしなかったというのに、菓子だけ食って帰るわけには」
「あら、お口に入れるとまるで雪のように溶けるのよ。ナッツの香ばしさも相まってとっても美味しいの。料理長ご自慢の変わり種のクッキーなのに、勿体ないわ」
「しかし……」
「ふふっ、しっぽ……可愛い」
くっ……じっと耐える俺の苦労も知らず、しっぽが勝手にパタン、パタン、とテーブルを打つ。
バターの匂いが美味そう過ぎて、我慢も限界だ。つらい。いやいや、夜会の時だっていつもちゃんと我慢してきたじゃないか、俺。
「はい、どうぞ」
急に目の前に差し出されて、思わずパクリと食べていた。
い、今のは不可抗力だ……。
しかもめちゃくちゃ美味い。本当に口に入れた途端に、淡雪のように滑らかに溶けていく。粉砂糖がたっぷりとついていた割には控えめな甘さで、バターとナッツの香りが鼻腔をくすぐる。意外にもほのかにアルコールの香りも漂って、大人な味だった。
食い終わるのを待つように、ブールドネージュを指先でつまんではセレン嬢が俺の鼻先に持ってくるものだから、もはや脳が止める間もなく口ははぐはぐと動き続ける。
情けないことに幸せな味だった。
「ね、美味しいでしょう?」
「絶品だった……。パティシエ……料理長に、よくよく礼を言っておいて欲しい」
「ええ、もちろんよ。ところでヴィー、知っていたらでいいのだけれど、ひとつ教えてくれるかしら」
「ん? なんだ」
「ヴィオル様って何を贈ったら喜んでくださると思う? 甘いもの以外に、なにか思い当たることがあるかしら」
「なんだ急に」
「ヴィオル様に何かお礼をしたいのよ。わたくし、本当に感謝しているの」
「まだそんなことを言っているのか。先日ダンスを踊っただろう、あれで充分満足していたようだぞ」
「わたくしとのダンスなんて、お礼にならないもの。むしろ初めて誘っていただけて、わたくしが感謝したいくらいよ。そういうのじゃなくて、なにかヴィオル様が欲しいものとか、幸せになれるものとか、そういう物が贈りたいのよ」
「そう言ってもなぁ」
俺はセレン嬢と踊れて本当に嬉しかったんだが。
それに、給金はたっぷり貰っているし、魔術と甘味以外に興味があるものもないしなぁ。しかし、セレン嬢がここまで言うのだから、断り続けるのもある意味かわいそうな気がしてくる。
「分かった、探りを入れておく」
そう答えるしかなかった。
週末で疲れていたのでついつい欲望のまま書いてしまった猫愛で回……。




