報酬は保留で
そう決めたのに勇気が出なくて、沈黙の中ヴィオル様がページを繰る音だけが微かに聞こえる。それでも急かすこともないヴィオル様の静かな優しさがありがたくて……わたくしの唇から、ようやく言葉が零れ出した。
「殿下が……せっかく初めてのお出かけに誘ってくださったのに……わたくし、素直に喜べなくて」
聞いているのかいないのか、ヴィオル様の手は一定の速度でページをめくっている。
「殿下とマリエッタが並んだならば、きっと絵のように美しい……そんな、詮ないことまで考えてしまって……わたくし、こんなに卑屈な人間だったかしら」
「別にセレン嬢が並び立っても遜色ないと思うがなぁ……」
囁くようなわたくしの声よりももっと小さな声でヴィオル様が呟くから、驚いてヴィオル様を見たら、ピクリと肩が動いて次いで耳の端っこが赤く染まった。
「す……すまん、今のは本当に独り言だ……」
恥ずかしそうにうつむくお姿に、しょんぼりするヴィーがだぶって見えて、うっかりときめいてしまった。思いっきり慰めたい。よしよし、ナデナデしたい。でもそんな事をしでかしたら、二度と顔向けできなくなってしまう。
わたくしは、ナデナデしたくて震える手を、必死で自分の太ももに押し当てた。
「ありがとうございます。ヴィオル様は優しい方なのですね」
「世辞を言ったわけではないんだが、まあいい。俺はもう行く」
耳を赤くしたまま、ヴィオル様はそそくさとベンチを立ってしまう。わたくしは慌てた。せっかくヴィオル様に会えたのだから、この話だけはしておかなければ。
「あっ、待ってください。あの、わたくし報酬のお話を……」
「ああ、それな。ちょっと考えがあるから保留だ。しっかりと自習しておけよ」
振り返りもせずに、お愛想程度に左手だけひらひらと振って、ヴィオル様はスタスタと歩いて行く。声をかけることができずに見送っていたら、ヴィオル様の足がピタリと止まった。
「そうだ、忘れていた。今日の魔力の巡りはなかなかいいぞ。昨日より上達している。その調子で鍛錬してくれ!」
振り返ったヴィオル様の言葉が嬉しくて、自分でも顔がほころぶのが分る。ちゃんと今日も進歩できたのだというちょっとした自信の積み上げが、わたくしにはとても重要だったから。
深々と頭を下げ、次に上げた時にはもうヴィオル様の姿はどこにもなかった。
そういえば、考えがあるって何かしら……。
すごく気になるけれど、もはや答えを知る人の姿はどこにもない。仕方なくわたくしは大量の指南書を抱えて家路についた。
***
邸に帰り着いたわたくしは、すぐにでも魔術の指南書に没頭したい気持ちを抑えて、直近の予定を立てる。
五日で一週間、それが六週で一ヶ月。試験のエントリーの期日まであと六十七日……つまり十三週しかないのだから、計画を立てて取り組まなければ絶対に無理だ。
正直わたくしのような箱入りでは、魔獣と戦って合格がいただけるほどの戦果を上げるまでにひと月くらいは必要だろうと思う。なんせ学園もサロンもお休みなのは週に一日だけ。ひと月あっても討伐に行けるようなチャンスは六回しかないのだから。いえ、ひと月で大丈夫なのかしら……。
そこまで考えて、わたくしはふるふると頭を振った。
不安ばかりあげつらっても良いことなど何もない。要は実戦にしっかりと使えるだけの時間を確保すれば良いだけの話だもの。
「まずは今日からの一週間よね」
手元のノートに簡単にカレンダーを作って予定を埋めていく。
ええと、今日と明日がもともと妃教育の予定だったのだから、自習に使える時間で、ここで魔術に関しての指南書をできるだけ読み込めばいいのよね。内容をまとめ、疑問だししながらでも、この感じならば一日に二冊は読み終えることが出来るだろう。
明後日はお休みの日だけれど……この日はいよいよヴィーが討伐に必要な魔術を教えてくれるという約束ですもの。ここからが正念場だわ。
ヴィーは何時くらいに来てくれるのかしら。できるだけたくさん練習したいから、少しでも早い時間に来てくれるといいのだけれど。ああ、今日ヴィオル様にお会いしたときに、お願いしておけば良かった。自分の迂闊さが恨めしい。
これからはこの、二日間は学園とサロン、次の二日間は学園と自習の時間、最後の一日がお休み、という毎週のスケジュールに効率よく学習する内容を当てはめていかなければならない。
そういえば、各々の魔術はどれくらいで習得できるものなのかしら。この前の疲労回復は、一晩かかったけれど……他の魔法でも同じくらいで習得できる?
ヴィーも言っていたけれど、攻撃魔法はいつでも練習できるわけではないわよね。でも、ヴィーが居ないと練習も出来ないのは困るわ。結界の魔術はわたくしでも覚えられるかしら。
次々と、疑問に思ったこともノートに書き出していく。
ヴィオル様にいただいた指南書でわかる部分も、そうでない部分もあるだろう。疑問は明確にしておいて、調べられなかったところだけ次にヴィーと会った時に訊けばいい。
そうだわ、もうひとつ。わたくし、魔獣の種類すら知らなかった。ヴィーはたしか、中級以上の魔獣を倒す必要があると言っていたわ。それがどんな魔獣なのか、危険度や弱点、攻撃手段も含めて調べられることは調べておかないと。
今ある魔術の指南書をある程度まとめ終えたら、また資料室に行かなくては。
そこまで考えて、わたくしはようやく気持ちが落ち着いてきた。あとは色々調べたり、新しい魔術を習ってから組み立てて良い部分だ。さあ、今日の学習に入ろう。
指南書に手をかけて、ふと気がついた。
……ヘリオス殿下とのお出かけ、どうしたらいいのかしら。




