ベンチに居たのは
振り返り振り返り、「無理するなよ」と言いながらサロンへ戻って行ったヘリオス殿下を見送って、その背中が見えなくなってから、わたくしは資料室を飛び出した。
遅くなってしまった。
ヴィーがあのベンチで会おうと言ってくれていたのに。
人影がないのを確認してから廊下を駆け抜け、扉を開け放つとあのベンチへと続く小道が見える。小道へと小走りで急ぎ、辺りを見渡してもヴィーの姿はもちろん、小道には誰の姿もない。
もうヴィーはベンチに居るのかしら。帰ってしまったりしていないだろうか。誰も居ないのをいいことに、少しスカートの端を持ち上げて、全力で走った。
やがて小道の先にベンチが見えて、わたくしは上がった息のままさらに足を速める。
見えてきたベンチには漆黒の……
ヴィオル様が座っていた。
「え……」
驚き過ぎて、思考が止まる。
ええ? あら? いえ、だってヴィーは……?
ぽかんとしたまま、いつもの黒髪に黒ローブの、お人形のように端正なお顔をまじまじと見つめてしまった。
かの方は一心に読書をしている様子で、先日カップケーキに見せていたような甘い甘いお顔ではない。細い銀縁の眼鏡をかけ本のページを静かにめくる様は流麗で、思わず見とれてしまうほど。
わたくしの気配に気づいたのか、かの方の手が止まり、ゆっくりと顔がこちらを向く。
「ああ、セレン嬢」
眼鏡を取った目元が少しだけ緩んだ気がして、わたくしの胸はなぜか急にうるさく騒ぎ出した。頬に熱が集まる気がしたけれど、細く息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。
「ヴィオル様、遅くなって申し訳ございません」
「読みたい本があったからな、別に問題ない」
目を逸らし、素っ気なく言う様がヴィーにそっくり過ぎて、つい微笑んでしまった。
「? 何か可笑しかったか?」
「いえ……お声も仕草も話し方も、あまりにもヴィーに似ていたもので、つい」
「む……そうか」
少しだけ眉根を寄せるお顔は、美しさも相俟って普通に見れば冷たい印象が増すのだろうけれど、いつものヴィーの姿が重なってなんだか可愛らしく思えてしまうから反応に困ってしまう。
「あいつは俺の使い魔だからな。似るんだろう」
「ところで、ヴィーは……?」
せっかくだから癒やされたいのだけれど。
「今は別の用事を言いつけてある。ヴィーから君が指南書を探していたと聞いてな、渡そうと思って持ってきた。さすがに猫の姿では運べぬだろう」
ヴィオル様の横にはかなりの数の本が積み上がっている。わたくしの貧弱な腕でもギリギリ運べそうな、絶妙な数だった。
「こんなに……! いいのですか!?」
「ああ。ちょっと多いが持てそうか?」
「なんとか……いいえ、読みたいので根性でなんとかしますわ」
「頑張ってくれ」
ヴィオル様……今、少しだけ笑った?
「悪いな、何度も会うのは君としても困るかと思って、少し欲張った」
「そうですね……今は、まだ」
わたくしは、寂しく笑う。そう、今はまだ、婚約者がいる身なのだ。
「俺はもう内容を覚えているから返却は不要だ。面倒だしな」
「重ね重ねお気遣いありがとうございます。本当に、感謝にたえませんわ」
「気にするな。ヴィーから君は熱心な良い生徒だと聞いている。頑張れ」
「ありがとうございます。ヴィオル様も、黒猫ちゃんのこと、ヴィーと呼んでくださっているのですね」
「!」
一瞬だけ瞠目して、ヴィオル様は気まずそうに自身の足元に目を落とした。
「ヴィーが……その、君に名をつけて貰ったと、喜んでいたのでな」
「そうですの、良かった。喜んでくれていたのですね」
本当にヴィーにそっくり。感情がない、表情が動かない、氷の魔術師団長だなんて噂をよく耳にしていたけれど、あんなの嘘だったわ。
確かに表情の変化は少ないけれど、喜怒哀楽がしっかりと出ているもの。それに、眉根が寄ったり表情が固まったりするのは、おおむね反応に困っているときだわ。
その端々がヴィーの姿と重なって、わたくしには微笑ましくしか見えない。
ヴィーに会えなくて残念だったけれど、不思議とヴィオル様と話していても癒やされる。さきほど乱された胸の内が、凪いでいくみたいだわ。
「それよりもセレン嬢、なにかあったか?」
「え?」
「いや……元気がないようだった」
すごい……! ヴィオル様クラスになるとそんなことまで分かるのかしら。
これまで感情の起伏はできるだけ見せないように努めてきた。先日お会いした時とは違って、今はそんなにあからさまなことはなかった筈だ。たった一、二度しか会ったことがないわたくしの感情の変化にも気づけるような、細やかなお心があることに素直に感動する。
「ヴィーから君の事情は聞いている。胸の内に秘めていても重くなるだけだ。吐き出せば少し荷が軽くなるかもしれん」
そんなことを言いながらも、なぜかヴィオル様はまた銀縁の眼鏡をかけて、さっき読んでいた分厚い本を開いて読み始めた。本に目をやったまま、独り言のように言う。
「俺はこの通り本を読んでいる。独り言だと思って愚痴っていけばいいだろう」
さすがに独り言とは思えないけれど。でも、そのお心遣いが嬉しかった。
ヴィオル様が用意してくださった本の山を間に挟んで、わたくしはゆっくりとヴィオル様の横に腰をかける。囁くような小さな声で、わたくしは少しだけ心情を吐露することにした。
前話の反応を私が心配していたせいか、感想や評価で後押ししてくださる方が多くて、
優しい方たちが読んでくれているんだなぁと感動でした。
ありがとうございました!
これからも体を壊さない程度に頑張って書いていくので、よろしくお願いします!




