【ヴィオル視点】行くなと言えればいいものを
一晩ぐっすり眠って体力も全回復した俺は、今日も意気揚々とセレン嬢の部屋へと向かう。
執務を終えてダンスの練習をして一日の終わりに特訓のためにセレン嬢の部屋を訪れる、このサイクルにもすっかり慣れて体力配分も問題ない。
今日は眠気に襲われずにセレン嬢の特訓に思う存分付き合ってやる事が出来るだろう。
そう考えたところで、俺はフ、と笑いを漏らした。
セレン嬢が夢中でウィンドカッターを撃ち続ける姿が目に浮かぶ。昨日あれだけ躍起になっていたのだから、今日も日中は魔術のことで頭がいっぱいだった事だろう。
少しでも早くセレン嬢の元へたどり着けるよう、俺は足を早めた。
***
「ヴィー!」
セレン嬢の部屋の窓辺に立つと、待ち兼ねたように窓が開かれる。
俺を一瞬で抱き上げて部屋の中へと招き入れ、脚を拭くのももどかしそうなセレン嬢の様子に俺は違和感を覚えた。
今日はいつもよりむしろ早めに着いた筈だ。いくら練習したくてうずうずしていたにしても、こんなにも余裕がない動きになるものだろうか。
「セレン嬢……?」
見上げて問いかけようとした途端、いきなり後ろからぎゅうっと抱きしめられた。
驚いて声も上げられずにいる俺の後頭部に、柔らかい感触が押し付けられる。
「セ、セレン嬢」
セレン嬢の頬っぺたが、スリスリと俺の後頭部を撫でる。そのたびに耳が押し除けられるのがくすぐったくて、耳が自然とピルピルッと動いた。
「何があった? 挙動が不審だ」
「何も」
セレン嬢はそう言うが、さらに頬を押し付けて俺の毛並みを堪能しているところを見るに、絶対に何かあった筈だ。
そうは思うものの、今重ねて聞いても答えまい。
俺はぎゅうっと抱きしめられたまま、しばらくじっと我慢した。腕も脚もセレン嬢にしっかり抑え込まれているから、自由になるのはしっぽくらいだ。
仕方なく俺はしっぽで優しくセレン嬢の腕を撫でた。
「何があったか知らないが、元気を出せ」
ヨシヨシとしっぽで労わるように撫でてやれば、セレン嬢が密やかに笑ったのが後頭部で感じられた。
ちょっとは癒されてくれただろうか。
「ありがとう、ヴィー」
お、頭が自由になった。
「貴方の毛並みって本当にビロードのようね。きめ細やかで柔らかくて、すべすべなのにふわふわ柔らかで……とても繊細な触り心地だわ」
「うむ、その素晴らしい毛並みをこれだけ好き勝手に堪能したのだから、そろそろ正直に話してもらおうか。何があった」
まだ毛並みを楽しむように俺の背中を撫でているセレン嬢に、俺は改めて問いかける。セレン嬢がこんな暴挙に出る時は大体なにかあった時だ。
「別に元気がないわけではないのよ。ただ複雑な心境になってしまっただけで」
セレン嬢の手が止まる。話す方に気持ちが集中した証拠だろう。見上げたらなんだか困ったような笑みを浮かべていた。
「ヘリオス殿下が、また一緒に城下へ出かけないかって誘ってくださったの」
やっぱり、ヘリオス殿下が原因か。
予想通りすぎてむしろ腹立たしい。あの男はいったいどれだけセレン嬢の気持ちを揺さぶれば気が済むのか。
腹立たしくて立ち上がれば、セレン嬢は名残惜しそうにまた俺をひと撫でした。
「前回、また誘うと言ってくださっていたから当然と言えば当然の事なのよ。ただ、これまでの事を思うとこんなペースで誘ってくださるだなんて予想外だったから」
「そうだな。どういう風の吹き回しだか」
前回一緒に出かけるという話になった時、セレン嬢は「初めてだ」と言っていた。
生まれた時から婚約者だったというのにこれまで一緒に出かけたこともなかった事実に俺ですら驚いたものだ。そりゃあ急にこんなペースで誘われれば驚きもするだろう。
「前回時間がないと一度はお断りしただけに、また渋るわけにもいかなくて結局はお誘いを受けたのだけれど……わたくし、心苦しくて」
受けたのか……。
胸の中がモヤッとして、ああ、嫉妬しているのだと自覚する。自分でも大人げないと思うし、セレン嬢の立場として断れる筈もないのは理解できるから、その事について口を挟むつもりはない。
ただ、「心苦しい」という表現が引っ掛かった。
「心苦しい……?」
「ええ、わたくしは既に婚約を破棄するつもりでいるのですもの、貴重なヘリオス殿下のお時間をこれ以上わたくしに費やしていただくのは申し訳ないわ。それに、マリエッタに悪いから……」
「ううむ、俺としてはどっちに対してもセレン嬢が申し訳なく思う必要はないと思うがなぁ」
「そうかしら」
「マリエッタ嬢は……俺にはよく分からんが、現時点で婚約者なのはセレン嬢だからなぁ。仕方あるまい。婚約が解消されれば解決することだ」
きっぱりとそう言ったら、セレン嬢も小さくコクリと頷いた。
「殿下に関して言えば、これまで疎かにしていた分を取り戻そうとしているだけだろうし、なんなら殿下の今後のために予行練習に付き合っていると思えば心苦しくないんじゃないか? たしか殿下も城下町に不慣れなんだろう?」
「そう……そうね、確かに今後マリエッタをエスコートする時の参考にしていただければヘリオス殿下のお時間を無駄に費やすこともないものね」
セレン嬢の顔がパッと明るくなる。自分の存在意義を見つけられてホッとしたらしい。これでセレン嬢も、前向きな気持ちでその日に臨めるだろう。
本当は「行くな」と言ってしまいたい。だが、今の俺にはそれを止める権利などない。
今俺にできるのはセレン嬢の不安を取り除く事くらいだ。
最善を尽くす、ただそれだけの事でこんなに胸が痛いとは思わなかった。




