満月の呪い
「全然効かないじゃない、この薬!どうするのよ!」
「そ、そんなはずないんですけど…」
エレーヌは焦っていた。
エドワードは薬を飲んでいるはずなのに、眠りにつかない。このままではベンズル蛇がいる沼地に着いてしまう。
既に竜を倒し、崖を下り終えている。
「おかしいじゃない!こんな場所に何カ月もいて、私のような美女に靡かないなんて、あり得る⁉ 二人でベッドに入っていないと妊娠したって言えないわ!一度だけでいいのに」
「き、きっとお疲れなんでしょう。あ、そうだ!教会で見つけた禁書の中に、相手の心を操るという内容があったんです」
「心を? 禁書ってことはそれだけ効果があるってことよね⁉ どうするの⁉」
「え、ええと、確か…」
エレーヌはテントから離れ、クリフに案内された大木の前に一人で立った。
森にいた頃は怖くてテントから出られなかったが、ここは見晴らしが良く、足を絡めとる蔦もない。せいぜいあるのは足首までの草花と、苔くらいだ。
「綺麗な満月」
エレーヌは空を見上げ感嘆した。とびきり大きな満月が頭上から月光を降らせている。星もどこで見るより美しかった。
満月が呪い成就の条件だなんて、ロマンチックね。
言われた通り目を瞑り、木のエネルギーを感じながら満月に向かって叫んだ。
「悪魔よ!聖女エレーヌがお前に命ずる!オスベル帝国エドワード皇帝陛下の心をここへ」
暫くそのまま待ったが何も起こらなかった。
クリフったら、本当に効果あるんでしょうね⁉
「聖女様」
怒ってテントに戻ろうとした時、エドワードが近づいてきた。
「エドワード様⁉ どうして」
目の前に願ったばかりのエドワードがいて、エレーヌは驚いて両手で口を塞ぐ。
エドワードは見たこともないような優しい顔で、エレーヌの顔を覗き込んだ。星空のような瞳に、エレーヌが映っている。
「あなたに会いたくて」
「本当に⁉ 嬉しい!私もそう思っていたの」
「こんな所で何を?」
「少し夜風に当たりたくて…。そうしたらこんなに美しい星空が。それに今日は満月なの」
「こんな景色をあなたと見られるなんて、私は幸せですね」
まあ、とエレーヌは嬉しそうにエドワードの腕に自分の腕を絡めた。
「エドワード様。私、今日は一晩ずっとあなたといたい。駄目かしら?」
「まさか。光栄です」
すごいじゃない、クリフ!いつもと明らかに様子が違うエドワードに、内心で浮かれた。
エドワードは後ろ手に持っていた手のひらサイズの箱をエレーヌに差し出しだ。
「こんな危険な場所まで来てくださった聖女様に、これを」
「ネックレス?」
真ん中に大きな宝石が埋め込まれている。
「まあ、ダイヤモンド? 綺麗!」
「本当はもっと早くに渡したかったのですが機会がなくて。貰っていただけますか?」
「勿論よ!嵌めてくださる?」
「喜んで」
エレーヌの首にネックレスをつけてやる。
「素敵!ありがとう、エドワード様」
エレーヌはエドワードに抱きついた。エドワードも腕を回す。
そろそろ深夜になろうという頃。夜行性の動物もいるだろうに魔物島は静寂に包まれている。月明かりのおかげでお互いの顔をぼんやりと見ることができた。
「エドワード様」
エレーヌが瞳を閉じて口づけを請うた。
唇に柔らかいものが当たる。
エレーヌが瞼を開くと、それはエドワードの人差し指だった。
エドワードはすぐに指を離し、その腕を彼女の首筋に回して顔を近づけた。至近距離で目が合い、エレーヌはドキッと胸を高鳴らせる。
「聖女様。臣下に下がるよう伝えて参ります。それまでここでお待ちいただけますか?」
エドワードが耳元で囁くと、エレーヌは蕩けそうになった。
なんて低くて艶のある声。
「ええ。でも心細いから、早く帰ってきてね」
エレーヌは去ろうとするエドワードをもう一度抱きしめた。
エドワードは彼女の髪を優しく撫で、「分かりました」と穏やかな笑みを向けた。
一人になったエレーヌは、これから起こることを想像し、悦に入る。
やった!やっとエドワード様が私のものになったわ!
聖女として崇められなくなるのは残念だけど、男子を産めば次期皇帝の母になる。その上であの女を処刑すれば、皇后の座だって私のもの。
聖女より皇后の方が良いに決まっているわ!
今までは白いドレスが多かったけど、もっと派手なドレスを着て注目を浴びたいし、公務と称してどこでも自由に遊びに行ける!何より色んな男と遊べるわ!
最高じゃない!
やっぱり私は神に愛されているのだわ!
その時、頭上からポタリと水滴が落ちてきた。
「雨⁉ もう!いいところなのに!」
空に文句を言ってやろうと、見上げた瞬間、何かとてつもなく大きなものが真横にあることに気づいた。
「何、これ? さっきまで、こんなものなかったわ」
大きなものの正体を探る様に、視線を徐々に上にしていく。
その正体に気づいたエレーヌが、短く悲鳴を上げた。
「ヒイイッ……」
首を擡げてエレーヌを見下ろしていたのは、体長が四十メートルはあろうかという大蛇だった。体を低くしているのに、大木のてっぺんと同じ位置に頭がある。
まさか……これが、ベンズル蛇⁉
ごつごつした鱗と、滑ったような肌が、月の光に反射した。まだら模様が禍々しい。
エレーヌは恐怖で凍り付いた。
一瞬止まった心臓が今度は激しく脈打ち出し、早く逃げろと急かしている。分かっているのに足が竦んだまま一歩も動けない。
縦に一本入った爬虫類の赤い目がエレーヌを捉えている。チロチロと二股に分かれた舌が口から出たり入ったりする度にシュー、シューと口から音がした。
その口が大きく開いた。喉の奥深くには黒い空間がある。入ってしまえば出られないのは明白だった。
牙が光った。謎の液体がその牙を伝って、エレーヌの頬を掠める。同時に泥と生ゴミが混じったような悪臭が広がった。
おえっ!臭い!
蛇の頭がそのまま、ゆっくりと下がってくる。
「ま、待って!子どもの肉の方が好きでしょう⁉ 知っているのよ!幾らでも用意してあげるわ!だから」
しゅるり、とさらに一歩、エレーヌに近づいた。すぐそこに顔がある。
「や、止めて‼お願い…‼」
逃げたいのに、足が竦んで今にも倒れてしまいそうだ。震えが止まらない。
誰か‼
嫌!こんな死に方、嫌よ‼
お願い!助けて‼
神様‼
声にならない叫びは一瞬で、蛇に呑み込まれた。
ベンズル蛇の口からエレーヌの下半身だけがぶら下がっている。ヒュゥヒュゥと音がする度に、エレーヌは徐々に呑み込まれていき、ついには消えた。
ベンズル蛇のお腹が人一人分、膨れている。久々の食事に満足したように、その場で眠りについた。
二十メートル離れた場所で一部始終を見ていたエドワード率いる騎士達は、その時を狙って一斉に毒矢を放つ。
「聖女様を手助けしろ!ベンズル蛇の鱗は固いから聖女様に当たることはない!躊躇するな」
エドワードの言葉に騎士達は張り切って矢を放ち続ける。もうすぐ自分達は奇跡に立ち会えるのだ。きっとこれから聖女様が腹を破って神々しくお出ましになるに違いない。皆がそう考えていた。
「そろそろ、毒が効いてくるかもね」
チャーリーがこそっとエドワードに耳打ちした。
エレーヌに渡したネックレスは、宝石部分が開くようになっており、その中には猛毒を仕込んでおいた。
いくらベンズル蛇と雖も、無事では済まないだろう。
ベンズル蛇は苦しみから、のたうち回り始めた。巨体が木に当たり、大木が一瞬で折れる。ドォォン、という衝撃音を気にする余裕もなく、最後には、自分で自分の体を一つ結びにしてしまった。
上から見下ろすと、毒々しい巨大なリボンの出来上がりだ。
「随分、苦しんでいるな。ベンズル蛇に毒矢なんて効かないはずなのに」
「聖女様の御力だろう。聖女様はきっと腹を割って出てくるに違いない!」
「ああ、彼女の力は本物だ!」
「自ら志願して腹に入っていくなんて、さすが聖女様だ」
騎士達は聖女エレーヌを褒め称えた。
エドワードは面白そうにそれを眺め、視線をベンズル蛇に移す。聖女でもないエレーヌが生きているはずもなかった。




