甘い香り
エドワードと騎士達は日に日に蓄積される疲れを感じながら、森を歩き続けた。体中から汗が噴き出す。
風が吹くたびに大きく揺れる木の枝も、地面に着くほど成長した蔦も、夜露に濡れた青草も、全てが生き生きとしている。こちらの生気を吸い取っているのではと疑心暗鬼になるほど、その生命力は凄まじい。
大怪我をする者、魔物に襲われる者、病気になる者、精神を病む者。次々と離脱者が増えていく。恐怖から夜もおちおち寝ていられない。そのせいで疲れが取れず悪循環が続いた。
ベンズル蛇が住む沼はまだ先だが、既に四分の一の騎士が使い物にならなくなっていた。
湿った土の臭いに、甘ったるい花の香りが混じる。強い陽の光が葉の間から差し込み、思わず片眼を閉じた。
くらくらする。
きっと疲れのせいだ。
日付の感覚はとうに無くなっていた。同じ道をずっと歩いている気がする。首筋を汗が流れた。
疲労からか眠気が襲ってくる。
駄目だ、寝るな…。
しかし、勝手に瞼が閉じていく。それは抗えない誘惑だった。木の幹に寄りかかり、いつの間にか眠っていた。
「……ディ。テディ!」
誰だ?
「大丈夫?」
ソフィー?
「良かった。やっと目が覚めた」
「ソフィー…。どうして」
「まだ寝ぼけているの?」
「私はどうして…。魔物は?」
きょろりと左右を見渡すと見慣れた城の寝室が目に入る。自室のベッドに横になっているようだ。
「もう、テディったら。五日前に魔物を退治して無事に帰って来たこと、忘れちゃったの?」
「退治した…?」
「ええ。帰ってからずっと寝ていたから、頭がぼんやりしているのかもしれないわ。紅茶を用意するから」
「いい。行かないでくれ!」
エドワードは後ろからソフィーに抱きついた。柔らかい赤毛が頬をくすぐる。それすら心地よかった。
「やっと会えた、ソフィー」
「本当に無事で良かった…!もう魔物はいないのだから、ずっとここで、二人で幸せに暮らしましょう。もう何も心配いらないわ」
ソフィーは体の向きを変え、正面からエドワードの首に手を回した。
ふわりと甘ったるい匂いが漂う。
「ソフィー、香水を変えたの?」
「香水? いいえ。ずっとローズウォーターだけだけれど」
「じゃあ、この香りは?」
「香り? 何も感じないけど? それより、やっと二人きりになれたのだから、もっと楽しい話をしましょう。その……そろそろ、子どもなんて、どうでしょう」
抱きついたまま、照れたように少し目線を逸らして、ソフィーが尋ねた。
エドワードは目を細め、赤毛を撫でる。抱きしめる手に力を込めた。
「あなたとなら何人でも…、と言いたいところだが」
「テディ?」
「——私の相手は、お前ではない」
エドワードは剣でソフィーの胸を一突きした。
刺された個所から血が垂れる。
「テ、ディ⁉ …どう、して」
うぅと呻きながら、ソフィーは霧散した。
途端に、城から森へと視界が変わる。
体が蔦に絡まれた状態であることに気づき、すぐに剣で切り落とした。
「こいつのせいか」
蔦を辿ると紫色の花が枝垂れ咲いている。芳香はこの花が原因だ。恐らく今の幻覚も。
騎士達は蔦に絡まれ、苦しむどころか、多幸感に溢れた顔をしている。幸せな夢を見ているのだろう。そのうちに蔦はどんどん彼らに巻きついていく。
「起きろっ!」
叫びながら、蔦を切り裂くと、騎士達が徐々に正気を取り戻し始めた。
「ここは…?」
ぼんやりとして、脳が働かない。強い香りに酔ってしまう。
「しっかりしろ!」
エドワードが一喝しながら、花を切り落とすと、切った所からギィアアアアと低い呻き声がした。その奇妙な声で騎士達も正気に戻っていく。
花を全て切り落としても、まだ夢から覚めない者もいた。チャーリーが彼らに近づき、肩を揺らすも反応がない。しまりのない顔で笑っている。
「幸せな夢から覚めたくないんだろうね。脳を操って相手が一番見たい夢を見せている。しかも現実に即したものだから夢だと気づけない。危うく、眠っている間に養分にされるところだった。初体験だよ!でもこんな強い幻覚作用を自分でどうにかするなんて、一体どうやったの⁉」
「ソフィーの再現が不十分だった」
「ソフィーちゃんなら、僕のところにも出てきたよ!一緒に魔物を解体したんだ!」
「…………」
それのどこが現実に即しているのだ、とは口にしなかった。
エドワードは切り落とした花をぐしゃっと踏みつぶした。甘ったるい嫌な香りが広がる。
こいつのせいで余計にソフィーに会いたくなった。
華やかさと爽やかさを兼ね備えたソフィーの香りが懐かしい。
それに——。
「子どもは…」
それを言うのは私の脳内のソフィーであって、現実のソフィーはそんなことを決して口にしない。
エドワードは無意識に胸元のネックレスを触っていた。
「この花、麻酔に使えるかも。持ち帰って調べよう」
浮かれているのはチャーリーだけだ。
他の者達は幸せな幻覚を見せられた分、現実が重くのしかかっている。
今日はここまでか。気持ちの立て直しが必要だ。
野営の準備を指示した途端、雨が降り始めた。
それまでの暑さが嘘のように体温を奪っていく。夜になると増々冷え込んで、歯と歯がガチガチとぶつかり合い、指先が震え出した。
騎士達の体力も気力も限界を迎えようとしたところへ、エレーヌが姿を見せた。毛皮を羽織っている。
「エドワード様。ご無事で良かった」
「これは、これは聖女様。ちょうど良いところへ。どうか聖女様から騎士達に癒しの言葉をかけては貰えないだろうか。彼らにとって、あなたの言葉ほど心強いものはないだろうから」
「ええ!勿論よ」
エドワードに頼られたことが嬉しいのか、喜色満面の笑みで騎士達の前に立った。両手を組み合わせ、胸の前で祈りのポーズを作る。
「神の声が聞こえるわ。誇り高きオスベル帝国の騎士よ、ただ信じろと仰っています。あなた達は必ず勝てる。私がいるのだから何も心配いらない、と」
彼女が神の言葉を伝えると、今にも崩れ落ちそうだった騎士達にやる気が戻って来た。立ち上がる者までいる。
「そうだ!俺達はオスベルの騎士だ!」
「まだやれる!」
「神がついているぞ!」
それを見ていたエドワードは、小声でエレーヌに耳打ちした。
「さすが聖女様だ。あなたがいてくれて良かった」
「そんな!…私の方こそ、いつも私の為に特別なお料理を作ってくださって。ルキリアの料理が食べたいなんて無理を言ってごめんなさい」
「お安い御用ですよ。ソースたっぷりのお料理がお口に合うのなら、幾らでも作らせましょう」
「嬉しい!ねえ、食事の後で今後のことをご相談したいの。テントに行ってもいいかしら?」
「それならクリフ主祭にも同席をお願いしましょう」
「ええ!伝えてくるわ」
最近、聖女からこの手の誘いが増えた。
「処女ではなくなったから聖女の力が消えた」とでも言い張るつもりだろう。ベンズル蛇に差し出される前に急いでいる訳だ。
十中八九、妊娠したと言い出すはずだ。こんな場所で聖女でも騎士でもない足手まといは、捨て置かれるだけだからな。
気持ちの悪い女だ。
しかし、まだ有用か——。




