回顧
ソフィーが目を覚ましたのは、それから三日後だった。見慣れない天井が視界に映る。
「ソフィー‼」
「ソフィー様‼」
エドワードが、安堵の息をついた。ソフィーの右手を、自身の両手で握りしめる。
ずっと見守っていたエマも、やっと力が抜けた。医師を呼ぶよう、メイドに指示を出す。
「ああ、ソフィー。良かった」
ソフィーは首だけを横に向け、ぼんやりとエドワードを見つめている。握った手も、握り返してくる様子はない。
「ソフィー?」
不安そうなエドワードに、焦点が合わない目でソフィーが問うた。
「…あなた、誰?」
ソフィーの様子から冗談を言っているのではないと、すぐに分かった。
エドワードはヒュッと喉が閉まるのを感じ、硬直する。その隣でエマも息を呑んだ。
ソフィーは手を離し、視線を天井へと向ける。
「私、助かったのね」
「そうだよ、ソフィー!何があったのかは、覚えている?」
「…何があった? 私は、火刑にされて…。あら、でも変ね、火傷の痕がないわ…」
手のひらを見ながら、不思議そうに呟いた。
エドワードはチャーリーの言葉を思い出す。
「使われたのはダチュラの可能性が高い。根も葉も花も全部毒で幻覚症状を引き起こし、最悪の場合は死ぬ。どこにでも生えているから入手経路からの犯人特定は難しいね」
怒りと恐怖で手の震えが止まらなかった。毒を盛った使用人は、騎士に捕らえられると同時に服毒自殺している。
これも、ダチュラの幻覚作用のせいか?
「…どうして助かってしまったのかしら。もう生きていたくないのに…」
まるで独り言のようにソフィーが呟く。天井を向く彼女の目には、エドワードは映っていない。
「ソフィー。あなたが死んでしまったら、私は生きていけないよ」
「あなたは誰…? あら、あなた」
ソフィーは驚いた様子で、視線をエドワードからエマに移した。
「あなたのことは、知っているわ。よく夢で見たのよ。小さな女の子の夢。あなた、その子の侍女にそっくりだわ」
両手で口元を抑えたエマが、声を絞り出す。
「……フィフィ様?」
「そうそう!あの子、私のことをそう呼んでいたわね。愛称で呼ばれたことなんて、なかったから嬉しかった。それに、いつも私の為に怒ってくれていたわ…。どれだけ心強かったか。夢の中の人物に会えるなんて、私やっぱり死んだのね!」
何の話だ⁉
しかし、隣で呆然とするエマは、明らかに何かを知っている顔をしている。
「…エマ嬢。説明を」
鋭いエドワードの視線に晒され、珍しくエマは思案に暮れた。
幼少期の頃によくやった一人遊びだと言い張るか? 通じるか、この男に? それとも夢のことを話す? 精神障害だと思われないだろうか?
緊迫感を増す二人を意にも介さず、ソフィーは嬉しそう笑った。
「良かったわ。やっと死ねた…。アンリ陛下と結婚して、ううん、その前からずっと、私なんて生まれない方が良かったの」
アンリだと⁉ 結婚した⁉
幻覚で見るのが俺ではなく、あいつなのか⁉
エドワードは爪が食い込む程、きつく拳を握りしめた。
駆けつけた医師の診断では、体調は回復傾向で幻覚症状もじきに収まると言う。
「このまま安静にしていてください」
医師の言葉と同時にノックの音がして、アーロンが顔を出した。
「失礼します。アンリ王太子殿下がお見舞いを、と仰っているのですが…」
アーロンが言い終わらない内に、アンリが扉を大きく開ける。
「ソフィー嬢」
アンリの声が聞こえると、ソフィーは突如、耳を塞いで震え出した。炎の熱さが一瞬で記憶に蘇る。
「いや!来ないで」
取り乱すソフィーの元にアンリが駆け寄ろうとして、エドワードに制止された。
「誰が入って良いと言った⁉」
「申し訳ございません。しかし、彼女と少し話をしたいのです」
睨み合う二人をソフィーの声が引き裂く。
「いやっ!お許しください…。もう許して…。謀反なんて、本当に、していません」
「……ソフィー。思い出したんだね」
アンリの台詞に、エマが勢いよく振り返った。
「思い出したとは? どういう意味です、殿下⁉」
「すまないが、他の者達は出て行ってくれないか?」
アンリの言葉を受け、アーロンは目でエドワードに指示を仰いだ。出ていけとの合図で、部屋にはソフィー、エドワード、エマ、アンリだけになる。
アンリがソフィーに少し近づくと、ビクッと体を震わせ俯いてしまう。エドワードは震えるソフィーの背をさすりながら、刺すような視線をアンリに浴びせた。
「それ以上、近づくな」
アンリはベッドの横で片膝をついた。丸まって震えるソフィーは、今世のソフィーとはまるで別人で、そこまで変えてしまった自分の罪を改めて思い知る。
暫しの沈黙の後、意を決したように話し始めた。
「ソフィー」
名を読んだだけで、ビクッと体を震わせる。
アンリは心臓を鷲掴みにされたような苦しさを覚えた。拳を握り、ギュッと目を瞑る。
罰を背負った体は重く、言葉が喉に引っ掛かって中々出てこなかった。
「……ソフィー。すまなかった。謝っても許されることではないが、本当にすまないことをしたと思っている。私は愚かだった。あんな女を信じるなんて…。君が望むなら、ここで私を殺してくれてもいい。部下には、自殺したことにするよう言ってあるから。…私のせいで何度も君を傷つけてしまった。挙句に、私は取り返しのつかないことを…!本当に、申し訳ない」
声が震えた。前世で最後に見たソフィーの顔と叫び声が頭から離れない。アンリは右手で目を覆った。その手の間を涙が伝う。
ずっと言わなければと思っていた言葉。やっと言えた。もう二度と直接言える機会などないと思っていたのに…。
自分の罪は許されていいはずがない。それでもどこか安堵した自分の卑怯さに、顔を上げることができなかった。
アンリは隠し持っていた短剣を取り出し、ソフィーに柄の方から差し出した。受け取る気配がないのを察知して、短剣をベッドの上に置く。
近づいたアンリにぴくっと反応したものの、ソフィーの震えは止まっていた。
「…牢の中で何度も考えたよ。エレーヌではなく君を信じていればって。君を愛して本物の王妃としていたら、どんなに幸せだったろうって。そんなことを考える資格すら僕にはないのに、何度も考えてしまうんだ…。僕は——」
「いい加減にしろ!聞くに堪えん。いつまで下らん芝居を続ける気だ⁉ そんなに死にたいのなら俺がお前を殺してやる」
ソフィーに語り続けるアンリに対し、ついにエドワードが限界に達した。短剣を手に取った彼は、殺気を纏っている。
「陛下!お止めください!」
本気で切りつけようとしているエドワードにエマが叫ぶも、聞き入れる様子はない。静かな怒りが充満していて、息をするのもためらう程だ。
「誰を愛するって? たかだか王太子の分際で!ソフィーはこの国の皇后になる。身の程を弁えろ!」
「陛下!」
エマがアンリを庇うように立ち、両手を広げた。右手に剣を持つエドワードと睨み合う。
「どけ!」
「お待ちください!殺してはなりません。ソフィー様の為にも、まだ聞かねばならないことがあるのです」
「何だ⁉」
「実は——」
誤魔化すのは無理だと判断したエマは、結局、夢のことを伝えた。
全てを聞き終えても、エドワードの殺気はまだ消えていない。
ソフィーはまるで他人事のように、ベッドの上でぼうっとしている。
アンリは納得したようだった。力なく床に膝をついたまま、「なるほど」と弱弱しく笑った。
「道理で。記憶がないはずなのに、時々、前世を知っているかのようだった。夢で見ていたなんて」
前世という言葉にエマが反応する。
「次は殿下の番です。この状況について知っていることを教えてください」
「…ソフィーが死んだ後の話だ」
アンリは遠い目をした。
「自棄になった僕は、無謀な戦争を仕掛けて負けたんだ。そのまま塔に幽閉され、後は処刑を待つだけだったのに、ある日突然、赤ん坊の頃に戻った」
「戻った?」
怪訝そうにエマが繰り返した。
「ああ。最初は生まれ変わったのかと思った。でも以前と全く同じ環境、同じ顔ぶれ、同じように進むストーリー。巻き戻ったとしか考えられなかった。神様がチャンスを与えてくださったと思ったよ。今度こそソフィーを幸せにするんだって」
目で威嚇したエドワードに気づき、話を逸らそうとエマが疑問を口にする。
「なぜ戻ったかお分かりになりますか?」
「さあ。ただ、ずっと自責の念に苛まれていたから、毎日のように神に祈っていたんだ。もう一度、最初からやり直したいってね。だからかな」
「ハッ。馬鹿馬鹿しい。神に祈って願いが叶うなら、泣く奴などこの世におらん」
ソフィーが上半身だけアンリの方へ向き直った。蒼ざめていた顔に、少し赤みが戻っている。
「ジョルジュは?」
「え?」
「ジョルジュはどうなったの? 私の可愛い子。あの子がいるなら後はどうでもいいわ。ねえ、ジョルジュはどこにいるの?」
「…………だ」
「え? 何て? 声が小さくて」
「…ジョルジュは死んだ」
アンリはソフィーと目を合わすことができなかった。
「……嘘」
「嘘じゃない。あの子は塔で……殺された」
「殺された…?塔って、だってあそこは幽閉される者が行く場所でしょう⁉ どうしてそんな場所で」
唇を噛み締め、自分の愚かさに震える。
「君が処刑されて、城にいるのは肩身が狭いだろうと、エレーヌに言われて…」
「……エレーヌ⁉ それで、あの子を塔に閉じ込めたの?」
「違う!テオを王太子に据えようとする者達から遠ざけようとしたんだ。塔の方が、警護がしやすいから」
「…エレーヌにそう言われたのね」
図星を指され、ぐっと言葉に詰まったアンリを、ソフィーは無機質な瞳で捉えた。
「あなた達が殺したのね? 私の子と言うだけで…。エレーヌが子どもを産めないから、私は子どもを産む為だけにお飾りの王妃にさせられたのに。あんな部屋に閉じ込められて、使用人にまで蔑まれて、あなたがエレーヌしか見ていなくても、どれだけ冷たい言葉を投げつけられても耐えてきたのに…!それなのに…!あの子は、あなたの子でもあったのよ⁉ エレーヌとの子が出来たからって殺すだなんて、どうしてそんなことができるの⁉ 私を処刑しただけじゃ足りなかった⁉ そこまで憎まれることを私はしたの⁉ 私が何をしたのよ!ジョルジュが何をしたって言うのよ⁉」
どんどん感情が昂っていき、遂には泣きだした。
誰も何も言えなかった。うっうっうっ、というソフィーの鳴き声だけが響く。
アンリも体を震わせていた。
「…信じてもらえないだろうが、私はジョルジュを王太子に据えるつもりだった」
「…後からなら、何とでも言えるわ。あなた達はいつもそうだったじゃない」
頬についた涙を拭おうともせず、ふふっと力なく笑った。もはや自分の人生に笑えてきた。
生まれてこなければ良かった。
ソフィーはゆっくりとベッド脇に近づいた。全員がソフィーの行動を見守る中、放置されていた短剣を素早く手にし、その勢いのまま自分の胸へと勢いよく振り下ろした。
「ソフィー様!」
エマが叫んだ。
アンリが手を伸ばして止めようとするが、届かない。
痛みは感じなかった。そろりと目を開けると、間違いなく血が流れている。
けれどそれはソフィーの血ではなかった。
ソフィーに覆いかぶさったエドワードが、優しく微笑みかける。右腕にナイフが刺さり、血が流れていた。
「ソフィー。怪我はない?」
「…あ、なた、どうして」
ソフィーは意味が分からず、エドワードの顔を凝視する。
「私は君の夫になるんだよ。妻に怪我などさせられないよ」
「…わ、私は、あなたなんて、知らない」
「それでもいいよ。もう一度好きになってもらえばいい。その自信があるんだ。さあ、今日は少し疲れたでしょう。これを飲んで」
即効性の睡眠薬を飲ませると、ソフィーはすぐにぐっすりと寝入った。
エドワードはソフィーの頬についた涙を指でそっと拭った後、外にいる騎士に叫ぶ。
「入ってこい!この男を捕まえろ!」
「何事です⁉」
「この男に刺された」
「何⁉」
「殿下が⁉ そんな馬鹿な。殿下がそんなことをするわけがない!」
しかし、エドワードの腕から流れた血がぽたぽたとベッドを汚している。アンリはすぐに捕らえられ、牢へと運ばれていった。状況が分かっていない大使達も同様に拘束された。




