胸騒ぎ
新しく用意された部屋は、以前よりも広い。ウルトラマリンで塗られた壁は、エドワードの瞳の色と同じで何だか落ち着かなくなる。
ラピスラズリから作られるのよね。かなり高価だと聞くのに、こんなに贅沢に使うなんて!
ソフィーがうっとりと四方を見回していると、ノックの音が聞こえた。
「…モーニングティーをご用意しました」
辛うじて聞こえた、か細い声は震えている。
「入ってちょうだい」
ソフィーとエマがソファに腰かけ、ポピーがカップに紅茶を注ぐのを待つ。ポピーとイザベラの目は腫れ、アヴァの頬には殴られたような赤い痕があった。
「そんなに手が震えていては、零してしまうわ」
「…申し訳ございません」
案の定、バシャリとテーブルに紅茶が零れた。
「申し訳ございません!申し訳ございません!」
慌てて拭くのを、他の二人も手伝う。全員、生きた心地がしていないような顔をしていた。
「爽やかな朝なのに、そんな死人のような青い顔をしていては勿体ないわ。もっとリラックスしてはどう?」
「…はい。申し訳ございません!」
「謝罪はやめて。あなた達は何も悪くないんだから」
ソフィーが優しく言うと、全員が下を向いた。
「後は私がやりますので、もう結構です」
エマの言葉に、そそくさと出て行こうとドアを開けると、騎士二人が立っていた。
ソフィーが満面の笑みで挨拶する。
「ごきげんよう。良いお天気ね」
曇った空は今にも降りそうだ。
「…………ソフィー様。今までの非礼、お詫び致します。誠に申し訳ございませんでした」
メイド達よりはしっかりした声だが、覇気がない。しかし、本心ではあるらしかった。
「許してあげるわ」
ソフィーがそう告げると、バッと揃って顔を上げた。侍女達も顔に生気が戻る。
「昨日ね、あの後すぐに騎士団の方々が私に懇願に来たのよ。私が『謝罪が先ではなくて?』と申し上げると、今のあなた方と同じように深く謝罪されたわ。きっと騎士団の偉い人達だったでしょうに。あなた達の為に頭をお下げになったのよ」
二人は泣きそうな顔をした。
「だから、それに免じて許して差し上げるわ。陛下にもお伝えしてあります。良かったですわね。良い上司に恵まれて」
そもそも処刑など望んでいないし、これでソフィーは騎士団に恩を売れたことになる。
「…本当に、申し訳ございませんでした」
絞り出したような声の二人に、ソフィーは可笑しそうに笑った。
「謝ることなんてないわ。あなた達は聖女様の為にしたのでしょう? 尊い行為に、さぞ聖女様も喜んでくれたでしょうね」
ソフィーはそれだけ言うと、五人から完全に顔を背けた。力なく閉まるドアの音を聞きながら、苦手だったモーニングティーを飲み干す。相変わらず苦い。
「彼らの行為は目に余るものがありましたが、エレーヌ様が聖女なら納得です。あることないこと吹き込んだのでしょうね」
「そうね。彼らもある意味、被害者よ」
「そう言えば、食事が出なかった件は、お伝えしていないのですね」
「ええ。出されていたら、毒入りかもしれないと怯えながら食べる羽目になっていたわ。残したら非難されるかもしれないし。食事を出さなかったことについては、むしろ彼らを褒めたいくらいよ」
ソフィーはゆっくりとカップを置いて、エマと向き合った。
「でも、あなたまで巻き込んでしまって、ごめんなさい。それに勝手にオスベルに残る決断をしてしまったわ。エマが望むのなら父に頼んでいつでもルキリアに」
「ソフィー様。私はあなたに一生を捧げると決めています。ソフィー様が残るなら、当然私も残ります」
「…エマ!」
ありがとうの代わりに全力で抱きついた。
朝食を終え、新しいガヴァネスであるスカーレット女史の下で、国の歴史、政治、経済を中心に学ぶ。来なくなった彼女よりも、ずっと分かりやすく、また厳しかった。
「疲れたー」
自室に戻るなり、背を完全に預けた状態でソファに座り込む。
沈みかける太陽を見ていると、ふと、壁際に置かれたピアノが目に入った。
「部屋にピアノがあるなんて贅沢ね」
「立派なピアノですね。折角ご用意くださったのだから、一度くらい弾いてみては?」
「それもそうね」
ソフィーは早速、ピアノに近づき椅子を引いて座った。背もたれのない低い椅子に腰かけると、自然と背筋が伸びる。
ゆっくりと鍵盤を押し下げると、よく調律された綺麗な音が鳴った。
ソフィーが選んだのは「夏の泉」という、もうすぐ暑くなっていくこの時期にぴったりの曲。煌めいた水が飛沫を立てながら踊っているような、華麗で爽やかな曲だ。
ソフィーが夢中になって弾くその音に、最初に気づいたのはエドワードだった。ソフィーを見初めるきっかけになったピアノの音色に、つい口元が緩む。
城内にある教会で打ち合わせをしている最中のことだった。
エレーヌはエドワードに表情の変化に目ざとく気づき、大げさに驚いてみせた。
「まあ、ピアノの音色だわ!」
そう言うと、近くにあったオルガンに近づき、徐に「愛の目覚め」を弾き始めた。宗教を題材とする神歌の中でも有名な曲だ。ピアノの音を打ち消すような荘厳な音色に、エレーヌの美しい歌声が合わさる。
周りにいた侍女や騎士だけでなく、聖職者達も心を奪われた。
「まあ、なんてお美しい歌声。それにオルガンの音色も素晴らしいわ」
「あら、ピアノの演奏が止まったわ。きっとお恥ずかしくなってしまったのね」
「それはそうよ。あんな演奏では、エレーヌ様の足元にも及ばないもの」
クスクスと侍女が笑う。エレーヌの独奏はそれから十分間、続いた。
「私の演奏は、どうだったかしら? お気に召すと良いのだけれど」
「お上手でしたよ」
エドワードが褒めるとエレーヌは「良かった」と安堵の笑みを浮かべた。侍女達が彼女を褒めそやす。
実際、小綺麗でそつのない演奏だった。
それなのに——不思議なものだな。ソフィーの少しずれた音の方が、何倍も私の心を揺さぶる。
余計な時間を取られたエドワードは、脳裏にあるソフィーの音でイラつきを消した。
ソフィーはオルガンの音が耳に届いて、すぐに弾くのを止めた。呆れて弾く気が失せたのだった。
エレーヌは何でも人のものを欲しがる。物でも愛情でも成果でも。
「相変わらずですね」
「まあ、ピアノやオルガンの腕はエレーヌには敵わないわ。なんていうか、繊細なのよね。神経は図太いのに不思議だわ。指の細さの問題かしら?」
「私はソフィー様の野性的な演奏の方が好きですよ」
「それ、褒めてないわよ」
「失礼しました。しかし、本当にあのエレーヌ様ですね」
「心臓が止まるかと思ったわ。あれが聖女だと知っていたら、一生待たせてやったのに」
「一カ月間の審査で、本物だと認定されたとか。魔物の出現を見事に言い当てたそうですよ」
「本物なはずないでしょう。そもそも出身は私達と同じルキリアなのだから」
「亡くなったお父様にオスベルの血が流れているそうです…。しかし、詳細な書類は既に破棄され、ないとのこと」
ソフィーは眉根を寄せた。
「…この国にとって、聖女は特別な存在よ。皇帝陛下に次いで権力を持っていると言っても過言ではないわ。いや、もしかしたら、それ以上かも…」
そんな地位に彼女が就いたらどうなるか…。
赤黒く染まった夕焼けを目に映しながら、胸騒ぎが止まらなかった。




