月光に照らされて
一人でダイニングに向かうソフィーの足取りは、まるでぬかるみに嵌ったかのように重い。憧れの聖女との対面だというのに、嬉しさなど微塵もなかった。
「ソフィー。顔色が悪いね。大丈夫?」
廊下を歩く途中で話しかけられた。心配そうにエドワードが覗き込んでくる。
ソフィーはさっと目を逸らした。とてもじゃないが顔を見られない。
「…大丈夫ですわ。陛下、こんなところでどうされたのです?」
「いやだな。ソフィーを待っていたのだよ。二人で一緒に行こう」
優しく誘うエドワードの後ろにはアーロンが控えている。
まさか彼と一緒にいて、こんなに絶望的な気分になるなんて思いもしなかった。
「手を」
差し出された手を無視することはできない。並んで階段を降りる。
「ソフィー。この度の臣下の愚行、心より詫びよう。申し訳ない。思い出の品とは代えられないが、ドレスやアクセサリーなど、好きな物を幾らでも用意しよう」
そういえば、そんな議題だった気がする。もうそんなことは、どうでも良かった。
「…お気遣いに感謝します。が、すでに陛下から賜ったものが多くございます。そちらには手が付けられておりませんでしたので、新しい物は不要です」
「それでは私の気がすまないよ。妻に何かあった時に、何もできない夫にしないで欲しい。あなたの望みは何でも叶えたいんだ。望みさえすれば何でも手に入る。あなたはそういう立場にいるのだから」
そんな甘い言葉すら重く圧し掛かってくる。逃げられないよ、と言われている気になった。閉塞感がすごくて、眩暈がしそうだ。
「…ではお言葉に甘えて」
階段の踊り場で向き合った。背の高いエドワードを見上げると、相変わらず笑みをたたえている。
ソフィーが口を開きかけた時、「婚約破棄以外で、ね」と低い声が釘を刺した。
「⁉」
先手を取られ、固まる。
「ありもしない嫌疑を君が背負うことなんてない。それとも侍女三人に処刑を言い渡さなかったことを怒っている? あなたが望むなら五人全員喜んで処刑するけど」
さらりと手を取られ、指先にキスをされた。どうする? と目が訴えてくる。
「…そんなことは望んでおりません。それは、もうどうでも良いのです」
「では、ソフィーの望みは何? ソフィーが婚約破棄と言う言葉を口にするたびに、胸が張り裂けそうになるんだ。だからもうその言葉は二度と言わないで欲しい。何もしなかった私に怒っているのなら、罵ってもいいから」
蒼い瞳が愁いを帯びている。
この人は、私が議員達の話を聞いたことを知らない。
どれだけ彼を愛していても、二人の背中を後ろから眺めながら生きるのは嫌だ。フィフィは我慢して、我慢して、最後には殺された。
「あの、陛下、そろそろ聖女様が到着されるお時間です」
「待たせておけば良い」
懐中時計を気にしておろおろとするアーロンだったが、すぐまた気配を消した。
「聖女様をお待たせするなんてできませんわ。参りましょう」
「駄目だよ。まだ私達の話が終わっていない」
エドワードに右手首を掴まれ、引き寄せられた。
「ソフィー。これはとても大事なことなんだ。私達には話し合いが必要だ」
「…陛下は聖女様がご降臨されてから一度も私に会いに来なかったのに、なぜ突然そのようなことを言い出すのです? 私が婚約破棄を言い出したから焦っているようにしか見えませんわ!聖女様が子を産めないからって、道具にされるのは御免です!」
「違うっ!」
突然声を張り上げたエドワードに、びくりと体がすくんだ。それでも震える声で伝える。
「…私は、皇妃になるつもりはありません」
「誰がそんなことを言った⁉」
急に肩を掴まれ、あまりの迫力に硬直する。
「ああ、すまない。怖がらせる気はないんだ」
掴んでいた手は離されたのに、まだ余韻が残っている。
「私はあなた以外を娶る気はないよ」
目を合わせようとしてくるが、ソフィーは逸らしたまま答えた。
「聖女様が現れた以上、同じ事でしょう。私は国に帰ります」
「待って!」
エドワードはソフィーの肩にゆっくり顔を預けた。さらりと柔らかい黒髪が首筋に触れる。
「…まさかあなたがそんな事を考えていたとは」
エドワードはソフィーをきつく抱きしめた。ソフィーは戸惑いながらも、離れようとはしなかった。彼の声に切実さを感じたからだ。
「あなたを道具になんてするはずない。好きなんだ、ソフィー。心から愛している。私の后になるのは、あなたしかいない。会いにいかなかったのは、その、国に帰りたそうな君に少しショックを受けてしまって…。でもあなたと離れたくない。帰らないで」
何も言わないソフィーに、尚も続ける。
「不安ならあなたの希望を契約書に全部書いて。離れる以外のことなら、要求は全部呑むから」
ぎゅうっと腕の力が増した。信じてくれと言っているようだった。
ソフィーは驚きから、体中の動きが止まった。目を見開いたまま、どちらのものとも分からない心臓の音を聞く。
ソフィーはいつの間にか彼の背に両手を回していた。
ぴくっと軽くエドワードの体が動く。
「…ソフィー?」
いつも凛々しい瞳が、不安で揺れていた。夜空のような深い瞳は、それでも澄み切っている。
ああ、私は夢に囚われすぎていたのかもしれない。
この人はいつも、温かさや優しさをくれていたのに。
ソフィーはもう一度、今度は自分からエドワードに抱きついた。安心感が体中に広がって、不安は全部どこかに吹っ飛んでしまった。
ああ、私の直感は、彼を信じろと言っているわ!
もし夢と同じ状況になっても、彼が一緒ならきっと幸せになれる!
今まで逃げ腰だったのか嘘のように気持ちが固まった。
「今までの無礼な発言、お詫び申し上げます」
誤解から、とても失礼な態度を取ってしまっていた自分を恥じる。
ソフィーは真剣な眼差しでエドワードを見据える。今度は自分が伝える番だ。
「私、勝手にエドワード陛下は聖女様を選ばれると思っていました。でも違ったのですね」
「当たり前だ!私はあなたしか求めていない」
「私も、エドワード陛下を愛しています。もし今までの無礼をお許し頂けるのなら、私をあなたのお側に」
体ごと抱きしめられたことによって、ソフィーが差し出した右手は宙に浮いてしまった。その手をエドワードの背に回す。
窓から差し込んだ月光が二人を照らし、アーロンは思わず泣いてしまいそうになった。
「ソフィー。ああ、やっと手に入れた…。私はとっくにあなたのものだったのに、あなたは中々私のものになってくれなくて…」
「あら、私だってとっくにあなた様のものでしたよ? 代わりが現れたようなので身を引こうとしただけですわ」
「あなたの代わりなどいるはずがない。ソフィー。今後何があっても私の愛を疑わないで。私が愛するのは君だけだから」
「ええ。では私もエドワード様への変わらぬ愛をここに誓います」
「テディと呼んで」
「……それは、結婚後に」
「待ち遠しいね」
今まで空気を読んでいたアーロンが、咳払いで二人の世界を壊した。
「すみませんが、さすがにそろそろ…」
聖女のことをすっかり忘れていた二人は、顔を見合わせて笑った。




