§ 舞踏会の終わり
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舞踏会の会場の門前では、いくつもの馬車が主人の帰りを待ちわびている。
ソフィーは一足早く馬車の中にいた。強張った体はそのままで、ひどく気分が悪い。寄りかかったまま、皆の帰りをひたすら待った。
楽しそうな笑い声が次々と聞こえてくる。昂った声。キラキラした彼らにとって今日のこの日は一生の宝になるに違いない。王室主催の舞踏会とはそれくらいの意味を持つ。
笑い者になるだけだという事は十分に承知していた。でも行かざるを得ない。
いつまで続くのかしら…。
神道院に入りたいと申し出たことがある。家を出て教会で神に祈りを捧げながら暮らす方がよほどいいと思った。
しかし、すぐさま父に頬をぶたれ、衝撃で床に倒れる。
「わがままを言うな!王家との婚約を破棄できる訳がないだろう。侯爵家の娘なら務めを果たせ。恥知らずが!」
「…申し訳ありません」
小さな声でそれだけ言うのが精いっぱいだった。
「やめてお父様!お姉様がかわいそう」
エレーヌが駆け寄ってきて、父を諫める。
「エレーヌ。お前は本当に優しいな。しかし、私は侯爵家の当主として躾をしなければならないんだ。わかってくれ」
地を這う蛇のような声が一瞬で和らいだ。ソフィーには見せたことのない柔らかな瞳でエレーヌを見ている。その瞳がキッとこちらを再び睨みつけた。
「エレーヌはこんなに人を思いやれるのに、お前はいつも自分のことばかりだ!姉として恥ずかしくないのか」
床に手をついたまま、申し訳ございませんと再度の謝罪をした。
「ごめんなさい、お姉様!私の体が弱いばかりにお姉様にばかり負担をかけてしまって」
エレーヌの目から涙が零れ落ちる。
「エレーヌ。そんなことを気にする必要はない。お前がいるだけで家族は幸せなのだから。健康な体で生まれたソフィーが頑張るのは当たり前だ。そうだろう、ソフィー」
「…はい」
エレーヌは体が弱く、昔から家族は彼女を中心に回っている。医師曰く、虚弱体質で病気ではないとの診断だったが、父も母もエレーヌが咳をしただけで異常に心配してすぐにベッドに寝かせ付き添った。
ソフィーが寝込んだ時は、エレーヌにうつさないよう別館に追いやられ、見舞いもなかった。
そういえば、私の誕生日にいつも彼女は体調を崩していたわね…。
冬の寒さは堪えるのか、誕生会の準備が終わり、後はゲスト達を迎えるだけの段階で毎回決まってエレーヌは寝込んだ。当然家族は彼女を優先したので、何度も誕生会は取りやめになった。
「お姉様、ごめんなさい」
ベッドに寝ながら静かに涙を流す彼女を家族が気遣う。
「エレーヌ。あなたは何も悪くないわ」
「そうだよ。体調が悪いんだから仕方ないよ。ソフィーお姉様もそれくらい分かっているよ」
「でも、私のせいでお姉様のお誕生会が台無しになってしまったわ」
泣き続けるエレーヌを家族が囲む。
「何言っているの。そんなこと気にしなくていいのよ」
「また来年やればいいよ。たかだか誕生会くらい。エレーヌの体調の方がずっと大切だよ」
「そうだぞ、エレーヌ。気にしなくていい。ゆっくり休むことだけ考えればいいんだ」
そう言うとフィリップは急に冷たい視線をこちらに投げてきた。ビクッと体が強張る。
「ソフィー、お前がいつまでもそんな顔をしているからエレーヌが気を遣ってしまうんだ。姉なのだから子どもじみた真似をするな!」
「…申し訳ありません」
いつしかソフィーの誕生会を開くこと自体がなくなった。
春に開かれる彼女の盛大な誕生会をいつも羨ましく眺めた。父や母、弟、友人達、それにアンリ王太子殿下。綺麗なドレスに身を包み、皆に囲まれて幸せそうに笑うエレーヌ。
もし自分の誕生会が開かれていれば、私も誕生日くらいは、あんな顔で笑えたのだろうか。
…ああ、本当に私って自分のことばかりね。お父様の言う通りだわ。
情けなくなり、思考を今に戻す。周りが慌ただしくなってきた。先ほどから馬車が数台通り過ぎている。そろそろお開きの時間だろうか。
ふわりと静かにドアが開き、ハッと顔を上げるとフィリップとメラニー、そして弟のジェレミーが立っていた。すぐさま馬車を降りる。
「ソフィー、あなたどうして馬車に乗っているの」
メラニーが呆れたように尋ねる。
「…少し気分が優れなくて」
ぼそぼそした低い声をかき消すように、フィリップが芯のある声を響かせた。
「何言っているんだ。王太子の婚約者が、気分が悪いくらいで先に城を出るなんて。そんなことが許されるはずないだろう。侯爵家の顔に泥を塗るな!」
「…申し訳ありません」
「そうだよ。エレーヌがあんなに頑張っているのに。貴族にとって社交がどれほど大切か、わかるでしょう?」
「ジェレミーの言う通りだ。お前は昔から——」
いつもの罵りが始まろうとしたその時、小鳥のさえずりのような高い声がそれを遮った。
「アンリ様。今日はありがとうございました」
満面の笑みのエレーヌの隣には、同じくにこやかな王太子アンリの姿があった。二人はソフィー達がいる馬車の前で立ち止まり、会話を続ける。
「こちらこそ。今日の君もとても素敵だったよ。こんなに楽しい一時を与えてくれてありがとう」
「私の方こそ。お忙しいのにずっと隣にいてくれて幸せでした」
「二度も躍らせてしまって、無理をさせてしまったかな。体調はどうだい?」
「大丈夫です。アンリ様といると不思議と力が湧いてくるのです。むしろいつもより元気になった気がします」
まるでソフィー達など目に入っていないかのように二人の世界を作り出している。家族は皆、その様子を微笑まし気に見守っている。
ソフィーはやり場のない気持ちのまま、目線を下に向けた。街灯に照らされた足元の石畳が薄っすらと視界に入る。
「エレーヌの体調が一番だよ。僕がいることで元気になってくれるなら毎日でも会いたいくらいだ。何かあったらいつでも僕に言うんだよ」
「はい。アンリ様。ありがとうございます」
「遅くまでエレーヌを独り占めしてすまなかったな。グレイヴィル卿」
やっとエレーヌ以外に目を向けた。ソフィー以外の三人は嬉しそうにアンリと向き合う。
「いえいえ、とんでもございません。エレーヌを大切にしてくださり、ありがとうございます」
フィリップは恭しく頭を下げた後、すぐにエレーヌの嬉しそうな姿を目に入れる。
「良かったな、エレーヌ」
「はい、お父様!アンリ様が贈って下さったこのドレスもとても素敵なの!」
見て、と言わんばかりにエレーヌはひらりと回って見せた。蝋燭の灯りでも分かるくらいに華やかなドレス。
「はは。とても似合っているよ。親の贔屓目なしに皆がエレーヌにくぎ付けだった」
「ありがとう、お父様!アンリ様にエスコートをして頂いてホールの真ん中で踊るなんて、まるでお姫様になった気分!」
両手を口元の前で合わせて、嬉しそうに話す。
ぐしゃりと胸が抉られた気がした。
「そうそう、このドレス、ソフィーお姉様とお揃いなの!ね、お姉様」
エレーヌは私の腕に抱きつき、幸せいっぱいの顔をこちらに向けてくる。
二人並ぶとグレーのドレスを着た私はまるで侍女のよう。蝋燭の灯りの元では闇と同化して飾りすら見えない。
「ああ、そうだったな。ソフィー、お前も王太子殿下にお礼を言いなさい」
「…はい。お気遣い頂き、どうもありがとうございました」
とても顔は見られなかった。
「いや。気にしなくて良い」
冷たい声でそう言い放つと、すぐに関心はエレーヌに移った。
「エレーヌ、やはり君にはピンクがよく似合うね」
「ピンクは私の大好きな色なのです。だからドレスとともに贈って下さったこのネックレスもとても嬉しくて」
照れたように俯いて、首元へ手をやる。エレーヌにだけ贈られた大ぶりの宝石は見たこともないほど美しかった。
「それは、希少価値の高いピンクダイヤモンドなんだ。この大きさの物はきっと他にないだろう」
「そんな価値の高い物を私に⁉」
驚いたように声を上げる。
「もちろん!君以上にこのネックレスが似合う女性はこの世にいないだろう。君の為だけに作らせたものだよ。それに私の服にも君と同じピンクダイヤモンドがちりばめられているんだ」
襟元に控えめに配置されたダイヤモンドは、それでも別格の輝きだった。
「まぁ、とても素敵!アンリ様。私、今日という一日を絶対に忘れないわ」
エレーヌが嬉しさのあまり流した涙をアンリが拭う。
「エレーヌ。夜は冷える。帰ったら暖かくして、すぐに休むんだよ」
「はい。アンリ様」
アンリは馬車に乗り込むエレーヌをエスコートし、名残惜しそうに最後まで見送った。
馬車の中でもエレーヌは今日の出来事を話し続ける。
「それでね、王妃様にも私達二人はとてもお似合いだって仰って頂いたの。私、恐れ多くて」
そうは言いながらも顔に嬉しさが滲んでいる。
「そんなことないよ。雰囲気もぴったりだし、何より殿下がエレーヌを愛する気持ちが伝わってきたよ。他のご令嬢のお誘いを断って、ダンスを二度も踊るなんて」
ジェレミーが興奮気味に言い、フィリップとメラニーが笑みを浮かべながら頷き合っている。
誰も私のことなど気にも留めておらず、逆に助かったと思っていた。
「本当ね。アンリ王太子殿下が誠実な方で私もとても安心だわ」
「お母様」
感動した様子で目を細めたエレーヌだったが、突然その表情が陰った。
「どうした?」
父が心配そうに尋ねる。
「私ったらお姉様の気持ちも考えず、はしゃいでしまって…」
声のトーンを落としてそう呟いた為、私は驚いてエレーヌを見た。
この子は今更何を言っているのだろう。
家族の視線が私に突き刺さり途端に居心地が悪くなる。
「お前はまた、そんな顔をしているのか。何か文句があるのならはっきり言えばいい」
「…私は別に」
「そうよ、ソフィー。体が弱くて寝込むことが多いエレーヌが、こんなに楽しそうにしているのに」
「お姉様は殿下がエレーヌを好いていることを許せないんでしょうけど、こればかりは仕方がないよ。殿下が選んだのがエレーヌなんだから」
「だから、私は何も言っていないでしょう⁉」
意図せず語気が強くなってしまった。
「言っていなくてもお前の顔が気に入らないと言っているんだ!大体エレーヌが殿下に愛されているお陰で、お前は殿下と婚約できたんだ。忘れるな」
私はそんなこと頼んでいない!
叫びたかったが声が出ない。俯いて視線から逃れることしかできなかった。
アンリ様のことは確かにお慕いしていた。だけどこんな惨めな思いはもう嫌!
「お姉様、ごめんなさい。お姉様のお気持ちに気づいていたのに、私、自分の気持ちに嘘がつけなくて」
エレーヌの声が涙で震えている。
どうしていつもあなたが泣くの⁉ 泣きたいのは私の方なのに!
「エレーヌは悪くないでしょ。謝る必要なんてどこにもないよ」
「そうよ、エレーヌ。泣かないで。それに愛する人と結婚できなくて一番辛いのはあなたなのだから。ソフィー、エレーヌの気持ちも考えてあげて」
その言葉に私はたまらず母を見るが、彼女が見ているのはエレーヌだけだった。
「私はいいの。アンリ様が私だけを愛してくれている。それだけで十分幸せなの」
「エレーヌ」
母が涙ながらにエレーヌの手を握った。大丈夫よ、と声に出さずに励ましているかのようだった。
それなら、エレーヌが結婚すればいいじゃない!
私はギュッと目を瞑り、両手で耳を塞いだ。
もう嫌‼
声にならない叫びは誰にも届かず闇夜に消えていった。
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