皇帝エドワード
「疲れたろう」
フィリップが労う。
会場には食事が用意され、観客席にいた貴族達もこぞってステージに集まって来ている。
「お父様も。今日は本当にありがとうございました」
令嬢らしくドレスを摘まんでみせると、フィリップが笑った。
「お前がそんなお淑やかに振る舞えるとはな」
「失礼ね」
息を切らせているソフィーに対してフィリップは余裕そうだ。さすが場数が違う。
「後は結婚相手を見つけるだけだな」
ウッと息詰まった。
そう、デビュタントのもう一つの目的、それが結婚相手を見つけることだ。パーティーは夜通し続く。一人でも多くと繋がりを作る絶好の機会である。勿論異性だけに限らないが、令嬢達の専らの目的は異性との会話であった。この日の為に、他国からも王太子達が数名駆けつけている。
できればもう帰ってゆっくりしたい、と言うのがソフィーの本音だった。
ヒールで立ちっぱなしでいるのもそろそろ疲れたし、お腹も空いた。しかし、コルセットで締め付けられているせいであまり食べられない。
どうしたものかと思案していたところ、声をかけてきたのが何とアンリだった。
ギクリと怯みそうになったものの、何とか笑顔でごまかす。あれから会話をする機会はなかったが、婚約したという話は聞かない。
「ソフィー嬢。本日のダンス見事でした。すっかり見惚れてしまいました」
「ありがとうございます」
恭しく頭を下げた振りをして視線を下に逸らした。どんな顔をすればいいのか分からない。指輪のお返しもしないままに終わっているが、何も聞いてこない。
「実はここ数年外国に留学していてね、最近やっと帰ってきたんだ」
年数を考えると飛び級で卒業したことになる。
「さすが殿下ですね!」
「幼少期から学んでいるからね。すごいのは教師陣だよ」
「ご謙遜を」
ソフィーが笑みを零すと、同じようにアンリも表情を崩した。笑い方は以前のままだったが、成長して夢の中のアンリそっくりになっている。
「緊張で疲れたでしょう。あちらで一緒に…」
右手で観客席を指し示したアンリの言葉に被せるように、堂々とした声が割って入る。
「お話し中、失礼を」
アンリの話を遮ったのは、黒髪に蒼い瞳をした妖艶な美青年で、身なりや雰囲気に高貴さがにじみ出ている。何より、アンリの話を遮れる人物は限られる。
まさか、と胸が鳴った。この辺りの国で黒髪はかなり珍しいが、唯一オスベル帝国だけは例外だ。
アンリがソフィーを隠すように前に立ったおかげで、ソフィーからは二人の顔が見えなくなる。
「会話の終了を待って話しかけるのがマナーですよ」
アンリの凄味にも一切動じる気配がない。
「そうですね。しかし、その終了の気配が全くなかったもので。先程からご令嬢達がお待ちですよ。美しい花々には光が必要です。平等にね」
右の手のひらを横にし、背後を見るよう促す。その先には主役のご令嬢達が群がるように立っていた。アンリは気づかれないよう小さくため息を吐き、笑みを作る。
「それはわざわざお教えいただき、どうも有難うございます。エドワード皇帝陛下」
やっぱり!とソフィーは内心飛び上がるほど喜んだ。
オスベル帝国の皇帝エドワード。二年前に皇帝になったばかりにも関わらず、その有能ぶりで大陸中に名を轟かせている。
戦場では漆黒の狼と呼ばれて恐れられているとか。こんなに若くて美形だなんて。それに言語が違うのに文法も発音も完璧だわ!
いや、そんなことより!
王太子クラスならともかく、皇帝クラスが来ているなんて聞いていないわ!どうしよう。最初からいらしたのかしら⁉
ソフィーは内心、慌てふためいていた。
ご挨拶したいけれどきっと私ごときが挨拶してよい相手ではないわ。紹介してくれないかしら⁉
ジーッとアンリの背を見つめるも効果などなく、「少し外すね。また後で」と二人で立ち去ってしまった。
まぁそれはそうよね。がっくりと肩を落としたところを、女性にしてはやや低い声に呼び止められた。
「ソフィー様。ソフィー様の本日の挨拶に感動致しましたわ。まさに淑女のお手本という感じでした」
「ベル様!お久しぶりです!ベル様こそ。とても滑らかで優雅な挨拶。まるで妖精のようだと思っていましたの」
「まぁ」
ありがとう、とお互いに微笑み合う。
変わっていらっしゃらないわ。ベル様の柔らかい雰囲気、とても癒される。
「ところで、エドワード皇帝陛下には驚きましたね」
「本当に!いらっしゃると事前に知っていたら緊張で動けなくところでした」
「確かに。だから極秘だったのかもしれませんね」
「そうかもしれません。晴れの日の話題が全部持っていかれてしまいますもの」
エドワードとアンリは、マリーやジャンヌと話し中だ。他の令嬢達はその中に入れるはずもなく、遠巻きに四人を眺めている。
「もしかしたらマリー様かジャンヌ様のどちらかがオスベルに嫁がれるのかもしれませんね」
四人から視線を外し、ベルが声を潜めて耳打ちしてきた。
「なるほど!そうかもしれませんね」
どちらと並んでも双方ともに見目麗しく、とても似合っている。元々背が高いのに、さらにヒールまで履いたジャンヌ様と並んでもバランスが良い。
……ん⁉ オスベル帝国、エドワード陛下、ジャンヌ様。
何かに引っ掛かりを覚えて首を傾げた瞬間、ソフィーの脳内でそれらが合わさり記憶が蘇った。
そうだわ!夢の中では、ジャンヌ様がオスベルに嫁がれていたわ!
失礼にならないよう外していた視線をバッと戻し、思わずジャンヌに釘付けになる。ピンと背筋が上に伸びていて同性から見ても相変わらず格好良い。
確か、嫁いで数か月もしない内に聖女様が現れて、陛下は結局聖女様と結婚したんじゃなかったかしら。侍女達の噂話で聞いただけだからすっかり忘れていたわ。
脳内が忙しなく動き、不躾にジャンヌを見続けてしまっていたところ、彼女の隣にいたエドワードと視線がバチッとかち合った。
やってしまった、と慌てて体の向きを変える。
どうしよう、マナーの行き届かない人間だと思われたに違いない。冷汗が出た。
「ベル様!あちらでデザートでも一緒にいかがです?」
焦りを誤魔化すよう、ベルを空いている席へと誘った。
「いいですね。立ちっぱなしで足が疲れてきたところです。行きましょう」
動くとすぐに令息からベルにお声が掛かった。断るベルを見て、一番の目的は婿探しだということをやっと思い出す。
しかし、今はベルと一緒にいたかった。声をかけられないよう客席の一番前の隅に座る。
「ソフィー様は孤児達の支援もされているとか」
「ええ。半年に一度バザーを開いて、そのお金を孤児院に全額寄付しています。私だけではなく、他のご令嬢達にもお声を掛けて参加して頂いています」
「素晴らしいですわ」
「自ら神道院行きを希望されたベル様には敵いませんわ。私、ベル様からとても刺激を頂きました」
ベルの決断を知り、自分も何かをしたいと感じていたところ、ジョルジュが捨てられるかもしれないと嘆くフィフィを見て、孤児院の支援に思い至った。
手探りで始めたが、有難いことに賛同者は回を重ねるごとに増えている。
その後も時間を忘れ近況を報告し合った。何年も会ってないとは思えない程に自然に話が弾む。
挨拶に行く、とベルが席を外してすぐに声が掛かった。
「こちらは空いていますか」
低いのによく通る男性の声だ。妙に色気があった。
「ええ、どう、ぞ…」
生返事をしたが、相手がエドワードであることに気づき、半ばパニックになって立ち上がる。
エドワード皇帝陛下⁉ なぜここに⁉
「オスベル帝国のエドワードと申します」
「…グレイヴィル侯爵家の娘、ソフィー・グレイヴィルと申します」
ソフィーが身を屈めようとしたところ、手を取られ止められた。
「堅苦しい挨拶はなしで。どうぞお座りください」
手を取られたまま再度椅子へ座るようエスコートされる。エドワードは、さっきまでベルが座っていた右隣の席に自然に腰かけた。客席の間隔は狭い。エドワードの腕と触れ合ってしまいそうになる。
一体、どういう状況⁉ 心臓がうるさくて仕方ない。
「そこの君、彼女に新しいドリンクを」
給仕に指示し、すでに空になっていたグラスと交換してくれた。
「レディー・ソフィー。ソフィー様とお呼びしても?」
「…勿論です。エドワード皇帝陛下」
「テディで構いません」
にっこりと無茶を言う。
首が飛びます…。
エドワードの愛称はテディが多い。頭文字を変えてあだ名を付けることは、オスベルではよくあるという。
「先ほどのダンス、あまりにも素晴らしく見惚れてしまいました。あなたの周りだけスポットライトが当たったようだった」
「父のリードがあってこそですわ」
世辞を上手くかわす。下手ではないはずだが、皇帝陛下にそこまで褒められるほど上手くもないはずだ。
「グレイヴィル卿にも先ほど挨拶をする機会がありましたよ。名将と称えられていますが、ダンスもさすがの腕前ですね」
あぁ、なるほど。目当ては父か、とやっと冷静になる。
「ありがとうございます」
「本日はお疲れでしょうから、次の機会にでもあなたと踊る栄誉を私にも下さい」
いや、無理です‼とは言えない。
「…はい、是非」
その時はプレッシャーで倒れるかもしれないわ。
「いいえ、エドワード陛下ではなく、次の機会には私と踊ってくれませんか?」
二人の目の前にいつの間にかアンリが立っていた。覗き込むようにソフィーと目を合わす。久々に真正面からしっかりと見る彼は、以前より背が伸びて中性的な雰囲気はそのままに精悍さが増していた。
「おや、残念でしたね。私の方が一足早かったようだ」
楽しそうなエドワードの言葉を無視し、アンリが続ける。
「先程は失礼しました。今からでもご一緒しても?」
「かまいませんよ。勿論、私も一緒ですが」
エドワードの笑みが深くなった。
アンリは一瞬刺すような視線で彼を見た後、すぐ元の王子スマイルに戻る。
「ソフィー嬢の為にデザートを取ってきました。食べやすい桃のコンポートです。どうぞ」
自然にソフィーの左隣に腰を下ろし、透明のお皿に入ったそれを机に置いた。たっぷりのシロップに浸かった桃はピンク色に染まり、ミントの緑が美しさをより引き立てている。
「まぁ綺麗。ありがとうございます」
口元に近づけると甘い匂いが広がる。
「ひんやりとして、とても美味しいです」
甘いものを食べると落ち着く。疲れが飛んだ気がした。美味しい、と食べ続けていたものの両側からの視線に気づき食べるのを止めた。と言っても、もう殆どシロップしか残っていない。
そうだった…。エドワード陛下とアンリ王太子殿下に挟まれていたんだった!
固まったソフィーにエドワードが食べるよう促す。
「どうぞ、我々のことはお気になさらずに。美味しそうに食べる女性はとても魅力的ですね」
「ええ。別のデザートも幾らでもありますから。遠慮せずどうぞ」
無理です!
「あの、お二人で貴重なお話もあるでしょうから、私はこれで」
恐る恐る立ち上がろうとする。
「彼とは学友でね。もう話など学生時代に、し尽してしまったよ。それとも私では話し相手として不服だろうか?」
首を少し傾けながら尋ねるエドワードに、これでもかと首を横に振った。
「とんでもございません‼」
「なら良かった」
エドワードの低いのに甘く感じる声音と笑顔にドキッと胸が高鳴る。
「あなたがいるとソフィー嬢が緊張してしまいます。ただでも疲れているでしょうに」
アンリがエドワードに場を離れるよう暗に仄めかした。
「それはあなたも同じでしょう。自分の国の王太子が隣にいるなんて」
「私達は何度もデートをしている仲ですので、エドワード陛下のご心配には及びません」
「…へぇ」
笑みは濃くなったのに、声は鋭くなった。
ソフィーを挟んでやり取りされているので、目が左右に忙しい。お願いだから会話の内容に自分を絡めないで欲しい。
遠巻きにしている他の参加者達の視線もそろそろ痛い。
「ソフィー様は何か興味のあることはありますか?」
エドワードに会話を振られ、真っ先に脳裏にオスベル帝国のことが浮かんだ。本当はオスベル帝国の話を聞きたいけれどご迷惑ではないかしら? でもこの先、こんな機会は一生ないわ!
「あの!私、幼少期からオスベル帝国のお話が大好きで、よろしければ帝国のお話を聞かせて頂きたいのですが」
エドワードは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「まさか我が国に興味を持って頂けるとは。ありがとうございます。ソフィー様が聞きたいことがあるのなら、どんなことでも答えましょう」
これは質問を選べということね。今、私は試されているのだわ。
アンリも心配そうな表情を浮かべている。幾度か戦争をした国でもあるので政治の話はデリケートだ。
しかし、ソフィーが知りたいのはそんなことではない。
「よろしければ、オスベル帝国について詳しく書かれた本があればお教え頂きたいです。その、色々読んだのですが内容が多様で、実情に近いものがどれか分からず」
「なるほど。そんなにオスベルに興味を持って下さっているとは、嬉しい限りです。統治する者によって大きく内情が変わってきた国ですので、多様なのは頷けます。早速手配してお屋敷までお届けしましょう」
「いえ、皇帝陛下にお手を煩わすわけには参りません!父を通して取り寄せますので」
「外国にはない本や出版停止の本もありますので用意させて下さい。私からソフィー様への最初の贈り物として」
ここまで言われては拒否できない。他国の皇帝陛下に貸しを作るなんて父には叱られるかもしれない。
「…エドワード皇帝陛下の温かいお気遣いに感謝致します」
「ソフィー様の為ならお安い御用ですよ」
皇帝陛下という肩書がなくても、どこか近寄りがたい雰囲気があるが、丁寧で品のある物腰がそれを和らげている。話をゆったりと聞いてくれるし、存外に話しやすい。
落ち着いていてスマート。この方がオスベル帝国の皇帝なのね、とソフィーは感動した。
その後すぐに宰相に呼ばれエドワードは去っていった。
「まさかソフィー嬢がオスベル帝国に関心があるとは」
アンリがあまりにも気配を消していた為に、エドワードとの会話に夢中になってしまっていた。
しかもオスベル帝国の事を褒めている内容は不味い。ソフィーは蒼ざめた。
「申し訳ございません」
「構わないよ。他国に興味関心を持つのはとても大切なことだから。でも一つだけ」
言葉は丁寧なのに、いつもの柔和な雰囲気が消えている。
「彼には気をつけた方がいい」
低い声で耳打ちした後、アンリは初めてみる真剣な眼差しを寄こした。
「…それは」
どういう意味か等と聞いてはいけないと思い直し、途中で口を噤んだ。
「久々に君に会えて嬉しかった。デビュタントおめでとう!また会おうね」
普段のアンリの様子に戻り、そのままソフィーの元を去って行った。
最後のアンリの言葉に引っ掛かりながらも、笑顔で挨拶をして回り、そろそろ帰ろうかと思い始めていたところだった。
急に赤ワインをぶっかけられた。ポト、ポトと髪からワインが滴り落ちる。
「やだぁ。折角のドレスが台無しね」
「みっともないわ」
「殿下達に囲まれて、いい気になっているから」
クスクスと嫌らしい笑い声が聞こえ、目を向けた先には最後に挨拶をしたフランソワーズの姿があった。一緒に笑っている他の二人は取り巻きのようだ。
ソフィーはすぅぅぅと息を吸い込み、会場中に響くよう大声で叫んだ。
「誰か来てちょうだい!フランソワーズ様がワインを零されたの!きっとお体が優れないのだわ!」
ソフィーの言葉に目の前の三人はギョッとした。
使用人達が一斉に駆けつける。
「早く救護室にお連れして!大丈夫よ、フランソワーズ様!私のドレスの心配なんてなさらないで!」
「何言ってるのよ⁉ 私は体調が悪いわけじゃ…!」
使用人に連れ出されそうになるのを、身を捩って逃れようとする。
「ご無理なさらないで!仮にも貴族のご令嬢がこんな粗相をするなんて、体調が悪くないとあり得ないもの!きっと大舞台に緊張なさったのね!ゆっくりとお休みになって!」
ね? と目力を込めてフランソワーズを見据えた。彼女はかぁぁ、と顔をタコのように赤く染め、俯いて足早にホールを後にする。
エレーヌに慣れたソフィーには彼女の嫌がらせでは手ぬるかった。
すぐさま友人や家族が集まってくれ、場の空気を整えてくれる。有難い。
赤ワインの染みがついたドレスで場に留まるわけにもいかない。これ幸いと帰ることができて結果として良かったかもしれない。
こうしてソフィーのデビュタントは幕を閉じた。




