エレーヌの登場
その夜は大雨だったにも関わらず従者が突然やってきて、屋敷内が突如として慌ただしくなった。普段冷静な執事のサミュエルが歩を速めてメラニーに手紙を渡す。
読み終わる前に手紙がするりと床に落ちた。
「うそよ!」
メラニーが狼狽して立ち上がった。メイドが即座に椅子を用意して座らせたものの、動揺していて支えなしでは崩れてしまいそうだった。
手紙はメラニーの一つ違いの妹マチルダとその夫ガブリエルが馬車の事故で死亡したという連絡だった。湖に遊びに行った帰り、突然の大雨による視界不良で従者が操縦を誤り、崖から転落したのだと後からエマに聞いた。
次の日、空が白みだした頃に父フィリップが領地より駆けつけ、全員で王都にあるガブリエルの屋敷へと向かう。
白いレンガ造りの屋敷の前に着くと、執事が待ち構えていた。昨夜の雨が嘘のように空には晴れ間がのぞいている。
庭は人で溢れ、多くが泣いていた。胸を痛めながら屋敷へと入る。
屋敷内ではガブリエルの両親と弟がメイドに指示を出し、たくさんの蝋燭に火を点けさせていた。点けたものから順に外にいる人達へと手渡されていく。
ソフィーとジェレミーは挨拶だけして、そのままダイニングへ行くよう告げられた。フィリップとメラニーはその場で何か話していたようだが、メラニーだけすぐにこちらへ来る。メイド長らしき年配の女性が寄り添って椅子へと案内した。
「もうすぐ教会へと向かう時間になります。それまでに少しでもお召し上がり下さい」
メイド長は母の後ろに立ったまま全員の顔を見た。テーブルにはご馳走が用意されていたけれど食べる気分にはなれなかった。
重厚なベルベッドのカーテンが日差しを遮り、室内は薄暗い。
「マチルダ、どうして」
妹の名を呼んで泣き出したメラニーにつられて、控えているメイドたちもすすり泣く。戻ってきたフィリップが机につっぷしたメラニーの背中を撫でた。
お母様とマチルダ叔母様は親友のように仲が良かったもの。きっとお母様にとっては甘えられる数少ない存在だったはず。
ソフィーは泣き続けるメラニーを見ていられず、目を落とした。
「エレーヌ様、そちらへ行ってはいけません!」
突如、聞きなれた名前が耳に入り、バッと声の方を向く。若いメイドと金髪の美少女が立っていた。
ドクンと胸が鳴る。
金髪の美少女——彼女の顔には見覚えがあった。
「エレーヌ!」
メラニーがガタっと音を立てて立ち上がり、彼女の元へ走る。
「あぁエレーヌ!無事だったのね」
彼女の顔を優しく両手で包み込んだ後、その小さな体を抱きしめた。
「エレーヌ!エレーヌ」
何度も名を呼ぶ声は、涙声だったが、先ほどまでの悲痛感が和らいでいる。
「お父様、彼女は?」
ジェレミーが抱き合う二人を見ながら、尋ねる。
「彼女はマチルダ様とガブリエル子爵の子どもで、エレーヌ嬢だ」
「そうですか。お姉様、ご挨拶しましょう」
「え、ええ、そうね」
動揺しながら彼女の元へ向かう。そういえば二人には娘がいると聞いたことがあった。
…そんなはずないわよね。
けれど先ほどから脳内で警鐘が鳴っている。
「エレーヌ嬢。初めまして。ジェレミー・グレイヴィルと申します。この度はお悔やみ申し上げます」
「ソフィー・グレイヴィルです。私からもお悔やみ申し上げます」
頭を下げる。ジェレミーがいなければ言葉を見つけられなかったかもしれない。
エレーヌは母のドレスの裾を掴んだまま大きな青い瞳を見開いて二人を見比べている。泣いている様子はなかった。まだ四、五歳くらいだろうか。状況が分かっていないのかもしれない。
「エレーヌ、不安だったでしょう。もう大丈夫よ。お葬式が終わったら一緒に我が家に帰りましょう」
母の言葉に、目を見開いた。
「それって」
つい言葉に出してしまった。
「私達の娘になるのよ。嫌かしら?」
エレーヌに優しく問うと、彼女はゆっくりと首を横に動かした。
「そう。良かった!ねえあなた」
「ああ。私とメラニーがこれから君を守る。もう何も不安になることはない」
フィリップが聞いたことのないくらい優しい声でエレーヌに告げる。
「そうよ。本当の親だと思ってちょうだい」
エレーヌは微笑し、こくりと小さく頷いた。
外では蝋燭を持った人々が列をなしていた。
フィリップとメラニーは花輪をもって列の先頭へと向かう。二人の間には両手を繋がれたエレーヌがいた。母と同じ金髪の彼女は、後ろから見ると本物の親子のように見える。ソフィーは少し離れた場所から、その姿を眺め続けた。
教会に入りきらないくらい多くの人が参列した。泣き声が教会中に響き渡り、泣き崩れる者もいた。
それを見てメラニーはまた涙を流す。
ああマチルダ。あなたは本当に皆に愛されていたのね。
脳裏に生前のやり取りが浮かんでくる。
私の結婚式の最中、誰よりも泣いてくれていた。オレンジ色のドレスが涙で茶色に変わるほどだった。
それを見て、私も泣いてしまった。綺麗な顔でいたかったから泣かないように堪えていたのに。
「あなたのせいで不細工になったわ」
私が泣き笑いすると、
「何言っているの。今日のあなたは、誰よりも綺麗よ。ねえメラニー。結婚して離れ離れになっても、私はずっとメラニーの味方だから。辛い時は私のことを思い出してね。フィリップ様がいるからって私のこと忘れないでね」
「当たり前でしょう。あなたは私のたった一人の妹なのだから。もはや半身のようよ」
「ふふ。私もそう思う。私達、きっとおばあちゃんになってもこんな感じで笑っているわね」
そう笑ったマチルダの顔が忘れられない。
それなのに、どうして先に逝ってしまったの⁉ 置いていかないで!一人にしないで!帰ってきて、マチルダ…。
うぅっと嗚咽が漏れる。顔を覆った手のひらの間から涙が幾筋も伝う。
突然、ぎゅうっと右側から小さな手で抱きしめられた。驚いて顔を横に向けると、エレーヌが腰に両手を回していた。
「エレーヌ」
思わず抱きしめ返す。小さな体はとても温かくて、生きていることを実感させた。
彼女は生きている。
抱きしめる手に自然と力が入った。
「大丈夫よ、エレーヌ。泣いちゃってごめんなさい」
目にたまった涙を拭って小さな右手を握った。
マチルダ、安心して。この子は私が必ず守ってみせるわ!
祭壇に置かれた棺にバラ窓からの陽が差し込む。ステンドグラスを通した光は神秘的で、荘厳な教会内で際立っていた。
「天使様がお迎えに来て下さったのだわ」
誰かがそう呟いた。
ソフィーも息を呑み、周りの皆も一様に、ほぉっと目を瞠っている。
「ママァ」
突然の大声に、全員が声のする方を見た。
声の主は棺に向かって歩き出し、大声を上げて泣きつく。薔薇窓の光が、彼女の綺麗な泣き顔を浮かび上がらせた。
「ママァ、パパァ」
泣きながら棺に抱きつく小さなその姿は全員の涙を誘った。
「エレーヌ…!」
メラニーが泣きながらエレーヌを大事そうに抱きしめる。
「まだこんなに小さな子を残して」
「可哀そうに」
「なんて辛い光景かしら」
教会にいた人々は涙を流しながら口々にエレーヌを思いやった。
誰もが胸を打たれる光景を目にしながらも、ソフィーは胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。




