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夢見がち令嬢と狼の牙  作者: 松原水仙


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29/88

夢の終わり

 その日はとても寒かった。


 フィフィが死んだ。




 馬車の窓から空を見上げると、音もなく初雪が舞っている。こんな時期に雪が降るなんて、この国では滅多にない。


 子ども達がはしゃいで雪を追いかけていた。


 まるで雪がフィフィの為に泣いているようだわ。


 強い憎悪の感情に支配されて、ソフィーは泣けなかった。胸の内では、黒い靄が漂い続けている。吐き出したくて仕方がないのに、ぶつける先がない。


 一体、フィフィが何をしたと言うの⁉ 処刑されるべきは、あんた達でしょうが‼


 冷静に振る舞っていても、脳内では罵声が止まらない。


 すぐに異変に気付いただろうエマは、しかし何も聞いてこなかった。話す気分ではなかったのでその気遣いが有難かった。



 そんな気分のまま、ジェレミーの学校へと到着した。


 馬上槍試合の日だ。馬上槍試合と言っても、学生なので馬に乗らず木刀で戦う。


 貴族の令息が通う名門校の名物行事で、誰でも観戦できるとあって、すでに校内は多くの観客で賑わっていた。皆、足早に広場へと向かっていく。


「私、殿下の為にハンカチを用意したの」

「私もよ!早く行かなくちゃ」


 人気の男性陣は試合前に女性達が群がる。パーティーで何も貰えなくてもプレゼントを渡すのは自由だ。


「ソフィーは行かなくていいのか?」


 何でも見透かす父の目を、今日は見ることができない。


「そうよ。あなたも新しいハンカチを買っていたじゃない。あれは殿下に贈るものでしょう?」

「…いいえ。お母様。私はジェレミーに渡します」

「そうなの?」


 メラニーはフィリップと目を見合わせた。彼が首を横に振るのを見て、何か言うのを止める。


「少し人酔いをしてしまいました。裏庭で休んできて良いですか?」


 会場である広場は人がなだれ込んでいる。久々の娯楽に人々の熱気もすごく、離れた場所でも楽しそうな声が響いてくる。


「ああ。その代わり必ずエマと行動しろ。時間には戻れ。席は分かるな?」

「はい」


 フィリップはソフィーの頭に軽く手を置いたかと思うと、さっと立ち去った。メラニーはおろおろと両者を見やったが、心配そうな視線だけ寄こしてフィリップの後を追った。


 ごめんなさい。お父様。お母様。今は一人でいたいの。


 裏庭は人気(ひとけ)がぐっと減る。表の喧噪ももう耳に入っていなかった。いつも斜めすぐ後ろを歩くエマは、一メートルほど距離を開けて歩いてくれている。


 蜷局(とぐろ)を巻くようなこんな黒い感情はフィフィを通してしか経験したことがなかった。彼女を通さず直に感じるとこんなに違うのかと驚く。彼女はいつもこんな感情と戦っていたのだ。


 私はフィフィの気持ちを分かった気になっていただけだった。


 どうして最後は幸せになれるなんて暢気に思っていられたのだろう。フィフィはずっと助けも呼べず泣き続けていたのに。


 私はそんな彼女をずっと見続けていたのに!


 自然と早足になった。


 この黒い(もや)を吐き出したい。

 ふざけるな!と叫んでやりたい!


 怒りで涙が滲んだ。



 ふと教室にあるピアノが目に入り、吸い寄せられるように教室に向かった。広い教室は幸い無人だった。


 とん、と鍵盤に触れる。

 誰かの為にピアノを弾くのは初めてだった。


 遠くの喧噪にも簡単にかき消されるほど静かに奏でた。怒りを抑えて弾かないとピアノを壊してしまいそうだったから。


 十年以上に渡って自分が見てきた彼女の半生を思い出す。


 一度でも幸せだったことがあっただろうか? 抉られるような感情しか知らない。


 彼女を殺した後、あの二人は笑って生き続けたのだろうか。邪魔者がいなくなって、やっと二人で幸せに?


 笑わせるな!


 家族はどんな気持ちだったのだろう。ホッとした? 仕方ないと諦めた?


 なぜもっと彼女を見てあげなかったの⁉ どう見ても限界だったじゃない‼


 誰か一人でも彼女を思って泣いてくれただろうか?


 処刑場で笑っていた奴らを全員殺してやりたい!


 許せない!


 許せない!


 許さない‼


 彼女が何をしたというのか。あの男とエレーヌは、フィフィが自由になった後に告発することを恐れたのだ。だから必要もなく殺した。


 それだけの為に!


 ぐわっとこみ上げる心情を吐き出すように夢中で弾き続けた。怒りで震えるという感覚は初めてだった。


 この思いを伝えたい相手はもういない。



 もうフィフィはいないんだ…‼



 弾き終わった頃には情動に駆られ涙が溢れ出ていた。




 密かに持ってきていたハンカチを思い出す。一緒にご飯を食べて笑い合ったアンリの顔が浮かんだ。優しく私を見つめる瞳が好きだった。


 本当は今日、アンリにハンカチを渡すはずだった。ハンカチを選ぶ時もドキドキして、舞い上がって、幸せで…。


 だけど彼とこの先一緒になって、フィフィのことを思い出さずにいられる…?


 たかだか夢だなんて、到底思えない。


 彼女を思い出すたびに、同じ顔をした冷酷なアンリの顔が彼に重なるだろう。


 …きっと耐えられない。



 ——私は殿下とは一緒になれない。



 ウッウッと嗚咽が漏れ、遂にはピアノの上に突っ伏し泣き続けた。


 淡い初雪のような恋は、一瞬で消えた。




 結局ジェレミーは二回戦で負け、他国からの留学生が優勝したことでお祭り騒ぎも収束した。




 そしてそれ以降、フィフィの夢を見ることはなくなった。


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