王太子アンリ
ソフィーが屋敷内で孤立を深めてから数年が経った。相変わらず夢も現実もソフィーに厳しいままだ。
「会いたくない」
心の底から声が出た。
アンリ王太子殿下が我が家の昼食会に参加するとあって、朝からグレイヴィル家は忙殺されている。使用人達が庭と屋敷を行ったり来たりする様子を窓から眺めた。
昼食会はローズガーデンで開催される。庭ではメラニーを筆頭に使用人達が集まって大慌てで作業をしていた。気合がすごい。きっとエレーヌを王太子の婚約者にと張り切っているのだろう。
アンリは十二歳の誕生日を機に、主要貴族達の昼食会に積極的に出向いている。
婚約者探しの一環ではないかと実しやかに囁かれており、ソフィーとエレーヌも年頃と家格を考えれば、その婚約者候補の一人と目されていた。
夢の中のアンリとエレーヌを思い出しただけで、殴ってやりたくなる。そんな二人が揃うところを、現実でも目の当たりにする日がきたのだ。
ソフィーは自室でため息を吐いた。
「会いたくない!」
「もう何度も聞きました」
朝から落ち着きのないソフィーにコップに入れたお水を渡す。
「慣例では他国の王侯貴族のご令嬢を娶るはずなのに、なぜ国内で婚約者探しをなさるのでしょうね」
「どうせ、どこかでエレーヌを見初めでもしたんでしょうよ。出来レースに巻き込まれたのよ」
最悪だわ、と呟いて水を飲み干した。
ここ最近、エレーヌはメラニーに何度も社交場へ連れて行って貰っている。ソフィーは体調不良ということにして欠席させられた。しかし王太子がやって来るのにさすがに欠席扱いはできなかったようだ。
「これからが本当のフィフィの地獄の始まりよ。まぁ最低男と嘘つき女でお似合いだけどね。フン」
「言葉遣いにはくれぐれもご注意を」
「わかっているわ。へまはしない。生涯がかかっているんですもの」
ここでエレーヌに泣き出されたら一巻の終わりだ。
鏡を覗き込んで薄っすらと施したお化粧を確認した。
自分で選んだ淡い緑色のドレスには、胸元に小さなパールがあしらわれている。赤毛は纏めて横に流し、最後に小さな帽子を被れば完成する。品が良く華美になり過ぎないものを選んだ。当初はエレーヌと色違いのドレスの予定だったが固辞した。
ソフィーは鏡の前で右に一回転する。チュールのスカートがふんわりと舞ってなんとも可愛らしい。
「ソフィー様。そろそろお庭へ参りましょう」
「ええ」
帽子を被り、鏡の前でよし、と気合を入れた。
招待をした貴族達が続々と庭に集まってくる。皆一様に気合が入っているのが分かる。婚約者候補のいる家は特にそうだ。美しく着飾った令嬢達が何とも眩しい。男性陣はロングハットを被り、ダークスーツの人が多い。
パーティー好きの貴族らしく、渡されたウェルカムドリンクを手に、すでに話が弾んでいる。立食パーティーと言うのも話しやすさの要因だろう。
左右を薔薇に囲まれた広い会場には二百人ほど集まった。会場の両端と真ん中に真っ白いクロスの敷かれた長机があり、その上にはフルコースと高級ワインが用意されている。
ホストのソフィー達は挨拶に大忙しで、息をつく暇もない程だった。
そんな中、出席者が揃った頃合いを見計らったかのように、アンリが登場した。
一同、頭を下げ挨拶をする。
「畏まらないで。今日の素敵な日をともに楽しみましょう」
アンリは場の緊張を解し、ホストを務めるグレイヴィル家一同にも丁寧に挨拶をした。
メラニーには白、ソフィーにはピンク、エレーヌには黄色の抱えきれない程大きな花束を渡す。
「宮殿で育てている南国の花です。気に入っていただけると良いのですが」
十歳とは思えない堂々とした振る舞いは、本を見て想像した王子そのもので、参列者達はうっとりとしている。貴婦人達ですらそうなのだから、令嬢達が色めきだったことは想像に難くない。
夢さえ見ていなければソフィーも頬を染めたに違いない。しかし、今となってはアンリに恋情など湧きようもなかった。
フィリップの挨拶が終わると、新たに配られたドリンクを皆が片手に持ち、乾杯の合図とともにグラスを掲げた。
「乾杯!」
昼食会の始まりだ。ホストであるソフィー達は、場の盛り上げ役。エレーヌは早くも令息達に囲まれ楽しそうに笑っている。それを横目にソフィーは同年代の令嬢達に挨拶に向かった。
使用人達は話の邪魔をしないよう前菜をお盆に載せ配り歩いている。食べたい気持ちをグッと堪え、会話が止まったタイミングを見て挨拶する。
「ごきげんよう。本日はお越し頂きありがとうございます。グレイヴィル侯爵家の娘、ソフィーと申します。お楽しみ頂いていますか?」
三人のご令嬢は「ええ、もちろんですわ。本日はお招き頂きありがとうございます」と、にこやかに迎えてくれた。
ソフィーが話しかけたのは、デュランド公爵家のマリー、フォーレ公爵家のジャンヌ、ローレン男爵家のベルだった。
三人とも眩しい程に美しい。それにグラスを持つ所作も堂に入っている。マリーとジャンヌはアンリのいとこ。つまり王族の血が入っているので当然と言えば当然だった。
「とても素敵なお庭ですね」
金髪碧眼で、ロールした髪がゴージャスなマリーがそう褒めると、
「本当。薔薇の花も美しいし、何と言ってもこの広い空間の解放感が良いわ」とジャンヌが相槌を打った。こちらも金髪碧眼だが、真っすぐな髪とキリッとした目がクールな印象を抱かせる。
「おもてなしも素晴らしいし。楽しい会に呼んでくださってありがとうございます」
ベルが微笑んだ。落ち着いた栗色の髪に、やや低めの声。目がクリクリとしていて表情が豊かで親しみやすい。
「喜んで頂けたなら幸いです」
他愛もない会話が途切れずに続く。さすが一流の方々は話しが上手い。空気を壊さずに、しっかりと主張もする。
流行、趣味、旅行等、一通り盛り上がった所で、ソフィーは退席した。エレーヌは未だ男性陣に囲まれている。
とても楽しい時間だったわ。名残惜しい…。でも今日はホストだから皆と平等に触れ合わないと。
別の令嬢達の元へ向かい、同じように挨拶と軽い話をした。
何度か繰り返した所で、ドリンクを飲んで少し落ち着いていたところ、なんとアンリに呼び掛けられた。
「とても素敵な会ですね。楽しくて時間を忘れてしまいそうです」
「勿体ないお言葉です」
マリーやジャンヌと同じ金髪碧眼で、中性的な顔立ちと真っ白い衣装がよく似合っている。思わず見惚れそうになったのを誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「頂いた花束がとても魅力的だったので、早速飾らせて頂きました」
屋敷にある一番高級な花瓶に入れられた花々は、すでに会場にいる多くの人達の目を楽しませている。
「良かった。ソフィー嬢はピンクが好きかなと三色の花束の中から直感で選びました」
母は、幼い頃よくピンクのドレスをくれたが、今はエレーヌにピンクを、ソフィーには違う色のドレスをくれる。夢の中のエレーヌもピンクのドレスを身についていることが多くて、ピンクはエレーヌの色というイメージがついた。
つまり、ソフィーはすっかりピンクが嫌いになっていた。
「まぁ、ありがとうございます。殿下に頂けるなら、例え鼠色でも嬉しいですわ」
にっこりと微笑んで見せた。夢の中で鼠色のドレスを貰ったことへの嫌味だったが、当人は知るはずもないので困惑している。それはそうだろう。
「ホスト役は食べる暇もないでしょう。良かったら一緒に如何です?」
使用人から前菜のお皿を二つ貰ってサイドテーブルに置いた。イチジクとチーズのサラダは大好物で、ごくりと喉が鳴りそうになる。
「さあ、どうぞ」
「…ありがとうございます」
ここまでされては食べないと失礼よね、と自分に言い聞かせ、頂くことにした。
美味しい!やっとご飯にありつけた…。
気を張っていた為、気づかなかったが空腹は限界だったらしい。少量のそれはすぐになくなった。
「イチジクが瑞々しいし、チーズもとても濃厚で美味しい。オリーブオイルと黒コショウがよく合うね」
「イチジクもチーズも領地で取れたものです。お気に召したなら嬉しいです」
「とても気に入ったよ」
他愛もない話を少し続けた後、早々に引き上げの言葉を切り出す。
「殿下を独り占めしてはいけませんわね。他の方々もお話したいでしょう。楽しい一時をありがとうございました」
「そんなことを言わないで。まだそれ程、時間は経っていないよ。もしソフィー嬢が嫌でなければ、もう少しお話したいのだけれど」
ダメかな、と首を傾げられ、その場を離れられなくなった。
その後、少量ずつではあったが二人でフルコースを堪能し、今、目の前にはデザートまで用意されている。
食べながら彼はずっと楽しそうに話をしてくれた。
外国で食べた珍しい料理や、美しい景色、領地での遊び。経験したことのないソフィーでも目に浮かんでくるような話し方からは、社交性と知性を感じた。
「今日はとても楽しいよ」
満面の笑みの彼に、ソフィーは戸惑った。その笑顔は今までエレーヌだけに向けられていたものだった。まさか自分に向けられるとは…。
どんな顔をしていいか分からず、つい視線を手に持っているビスキュイに移してしまった。
「食べようか」
ふふ、とアンリが目を細める。目のやり場に困っただけなのに、食べたいと勘違いされてしまった。
「…はい」
恥ずかしくて増々顔を見られなくなった。
ビスキュイはケーキ生地に粉砂糖とベリーがトッピングされている人気の焼菓子で、ソフィーの大好物だ。
「美味しい!」
「うん。本当に美味しい!口どけが良いし、甘さと酸っぱさのバランスが良いね」
「はい。絶妙です!」
…しまった。王太子を前にして自前の菓子職人を褒めてしまった!
蒼ざめてアンリを見ると、笑いを堪えようと下を向いている。プハッと思わず噴き出したアンリに何事かと周りがざわついた。
「いや、失礼。面白くてつい」
「…いえ。こちらこそ失礼しました」
食べ物になると地が出る癖を直さなきゃ。
今度は赤くなるソフィーを見て、また笑い出した。
「フフフ。別のデザートも食べようか」
「…はい」
こうなったら食べよう。今はこんなに優しくても、将来はあのクソ男に変貌するんだから、気にせず食べちゃえ。
イチゴのタルトから始まり、プディング、桃のコンポート、アイスクリームを順に口に運んだ。驚いたことにアンリも同じ物を選び美味しそうに食べた。ペースもこちらに合わせてくれているのが分かる。
「ソフィー嬢は食への関心が高いんだね」
「…お恥ずかしながら」
「そんなことはないよ。この国は美食で有名だし、酪農や農業も盛んだ。食を知ることはこの国を知ることだよ」
意外だった。そんなことを言ってもらえるとは。
「しかし、さすがに食べ過ぎました」
ソフィーは思わずお腹を触る。朝と違う。
「そうだね。僕も美味しくて、つい食べ過ぎてしまったよ」
「私に合わせていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、楽しい一時をありがとう。是非また一緒に——」
「あのっ…」
アンリの言葉を可愛らしい声が遮った。
エレーヌ‼すっかり忘れていたわ。




