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6. 羽化

 今日の鱗粉予報では、関東甲信越地方のあちこちにモルフォチョウが留まっていた。偶然ではあるのだろうけど、この三日ほど立て続けに複数の羽化が起きた。折り良くというか悪くというか風も雨もなく、大気中の鱗粉の濃度は――はっきりと測定する手段はまだないからニュースで言ってしまうのはどうかとも思うけど――非常に危険な状態になっているとか。鱗粉注意報だ。

 テレビの画面に映し出される主要な駅の映像は、普段と比べて明らかに人込みの密度が薄い。改札に呑み込まれていく人たちも、制服のようにマスクと眼鏡、帽子で身を守っている。鱗粉注意報が発令されている日は自主的に休業する企業もあるし、ここぞとばかりに有給休暇を使う人も多いんだろう。


 私はというと、数日前から会社には行っていない。体調不良ということにしている。体感としてはそれほど調子が悪いという感じではないけど、ほとんど何も食べてないからいつもふわふわと夢見心地な気分。そういえば鱗粉を吐き出す前からあまり食欲がなかった気もする。蝶がいつから内臓を食べ始めるのかは分からないけど、自覚症状を覚えたらもう手遅れということなのかもしれない。


 会社に行かずに何をしていたかというと、身辺整理だ。特に冷蔵庫の中身はきちんと空にしておかないと。親や友人のために遺品はあっても良いだろうけど、もしも警察とかが来たとしても恥ずかしくない程度に部屋を片付けておきたかった。あまりにも着古した下着とか部屋着とか。細々とした紙類――古い手帳とか公共料金の領収書とか。重い本類は最初に処分したけど、持ち上げた時によろけてしまって体力がなくなっているのを思い知らされた。


 ゴミ袋に不用品を詰めるのにも、よく手を止めてぼんやりしてしまって。食べないとこうなるんだな、って――あまりやったこともないダイエットを、最後の最期にしたような気になった。それでも動いていられるのは、蝶が宿主を生かそうとしているってことだろうか。

 今の私は血の代わりに蝶が詰まっている。切りつけたら紅い血ではなく蝶が溢れ出す。その情景を思い浮かべるだけで、やせ細った神経が興奮を訴えた。


「よいしょ、っと……」


 そうして、やっと纏めたゴミ袋を両手に持って、集積所に向かう。玄関から数十メートル程度の外出も避けたいのか、そこに積み上げられた山はいつもよりかなり小さい気がした。近所の人たちの心情を思うと、申し訳なさで胸が痛む。どこかで起きた羽化によって舞う鱗粉にもこの怯えようなのに、すぐ傍で羽化があったらどうなってしまうんだろう。不動産の価値が下がったりするのかな。もう山奥に行く時間もなさそうだからどうしようもないんだけど。




 家に帰って、何となくテレビを眺める。本を読んだりお茶を淹れたりしたらまた片付けるのが面倒だから。芋虫が蛹になる前は動きが鈍くなるそうだけど、それと似たことなのかもしれない。何をするのも億劫で、時間がただまったりと過ぎていく。


「なんでこんなことになったの!? どうして……っ」

「諦めるな! 病気も戦争も、人間は乗り越えて来たんだ。虫なんかに滅ぼされたりはしない!」


 画面の中では外国の美男美女が抱き合っている。バタフライ・ショックが落ち着き始めた頃に沢山作られた似たような映画のひとつ、中でも悲恋仕立てで有名で、テレビでも何度も放映されているものだったはず。

 蝶に侵されたヒロインを助けようとする医者。けれどどんなに手を尽くしても蝶を追い払うことはできなくて。疲れ切って眠ったヒーローにキスをしてヒロインは荒野に去る。目を覚ましたヒーローは、地平線から舞い上がる蝶を見て彼女の死を知る――そんなストーリーだ。ラストの蝶のシーンはとても綺麗で、切ないBGMがぴったりで、お気に入りなんだけど。今は最後まで見ることができるだろうか。


「なんで、どうして……」


 ヒロインの台詞を、口の中で転がす。バタフライ・ショック以来、数え切れないほどの人が問いかけてきたはずのことを。

 医者も、科学者も、政治家も。蝶に憑りつかれた人、蝶に親しい人を殺された人。広瀬さんも、広瀬さんのお父さんも。みんな、どうしてと叫んだだろう。嘆いて祈って、呪って。沢山の人が死んでしまった。沢山の人が人生を狂わされて、そうでない人も怯えながら過ごしている。一体、なぜ。




 腕の裏側の皮膚をそっと撫でてみる。すると蝶の翅がレリーフのように浮かび上がる。皮膚のすぐ下にも()()――それくらい、蝶は私の中で殖えているらしい。指先で(つつ)くとその蝶は身体の奥の方へ逃げて行った。代わりにまた別の蝶が浮かび上がって皮膚の上に翅の模様を描く。他にもあちこちで蝶が泳ぐように飛んでいる。自分の身体を眺めるだけでこんなにうっとりとして過ごすことができるなんて。


 身体の中を飛ぶ蝶。やっぱり、とても不思議。仮に今の私が医療機関に実験体として志願したとして、医者は頭を抱えるだけな気がする。広い世界、バタフライ・ショックからの十五年の間には、羽化直前の人を調べるチャンスも何回かはあっただろうけど、いまだに何も分からないのはそういうことなんだろう。


 新種の寄生蝶。生物兵器。ウィルスが見せる幻覚。神の遣い、悪魔の手先。仮説だけは幾つもあって、でも、どれも違うと思う。だって蝶は、人類を怯えさせてはいても脅かしてはいない。人は鱗粉にも慣れた。それなりに対処する術を――技術や制度の上でも、気持ちの上でも――身に着けて、それなりの日常を取り戻している。映画のヒーローの台詞は、公開時はバタフライ・ショックのパニックに対する激励の意味があったんだろうけど、今となっては全く正しい。人類は虫なんかに屈しなかった。


 私の指に反応して身をよじった蝶――その翅の先が、今にも皮膚を突き破りそうに盛り上がらせた。紙一枚よりも薄い組織を透かして、メタリックな翅の青や緑が薄っすらと見えるくらい。


「そろそろ、かなあ」


 映画のラストシーンを見られないのを少し残念に思いながら、私はテレビの電源を切った。それから、テーブルの上に置いた遺書を確認して部屋の電気も消す。親に向けて書いたものだ。「蝶の館」や羽化への憧れのことは書かないで、ただ、先立つ不孝をお許しください、今までありがとう、的な内容だ。会社での引継ぎ的なメモも少し。それから広瀬さんに向けてもひと言。羽化の直後に会って話したから、自分のせいだと思ってしまうかもしれないから。貴女のせいではないと、信じてくれるかは分からないけど書いておいた。

 これで、見納め、と思って部屋をぐるりと見渡してから、スマートフォンを操作して「蝶の館」にアクセスする。閲覧専門(ROM)だった私にとって、最初で最後の書き込みだ。


 ――そろそろ羽化しそうです。○○駅近くで羽化があったら、それが私です。


 スマートフォンをポケットにしまって――その方が身元が分かりやすいと思ったから――、部屋を出る。鍵はもう要らないから、かけないままで。




 鱗粉注意報のお陰で極端に人の気配がないのを除けば、外は爽やかな初夏。見上げれば青い空に白い雲が幾筋か。あの青を、もうすぐ蝶が彩る。こんな良い天気の日に羽化を迎えることができて本当に幸運(ラッキー)だったと思う。

 ポケットのスマートフォンがひっきりなしに振動するのは、「蝶の館」の書き込みに対する反応を通知しているからだろう。おめでとう、って祝福のコメントもあるだろうし、釣り乙、とでも書かれているかもしれない。それはもうどうでも良いから見ることはないけど。ただ、広瀬さんとお父さんが私の書き込みを見て、父子が再会する切欠になれば良いなあ、なんて思う。広瀬さんは鱗粉注意報を押してまで外出したりはしないだろうか。分からないけど。




 羽化の場所として前々から近所の神社に目をつけていた。石の階段を上って、石の鳥居をくぐった先の御社殿は、普段は人がいないようだった。それなら迷惑をかける相手もいないだろうし――何より、高台にあるから視界がビルなんかに遮られる恐れがない。


「はぁ……っ」


 痩せ細った身体に、階段を上るのはかなり堪えた。でも、ここは頑張らないと。途中で羽化してしまったら、何だかもったいない。


 汗を拭って、息を切らせて。どうしてこんなことをしているんだろう、って思う。自分でおかしいと思うだけじゃない、この世のほとんどの人にとって私の行動は理解できないか、それどころか許しがたいもののはず。夢や希望があったのに、蝶によって断ち切られた人。親しい人を奪われた人。仕事を奪われた人。広瀬さんのお父さんのように羽化を望む人だって、やむにやまれぬ事情があってのことだ。

 私は――一応は五体満足で、職もある。鱗粉を撒いて他の人を怯えさせてまで羽化したい――死にたい、なんて。本当は考えてはいけないんだろう。普通の人と同じように、普通に生きていけば良かったはず。でも、私はそうはできなかった。


 だって蝶はとても綺麗なんだもの。


 十五年前のあの最初の羽ばたき。あの無数の蝶の煌きは、幼い私を魅了した。人の死と引き換えに現れるものだと分かってからも、怖いだなんて思わなかった。だってその頃にはもう、私は自分の容姿に対してごく客観的な評価を下していたから。蝶と鱗粉は私の生活からも多くを奪ったんだろうけど、それ以上に計り知れない大きな恩恵を与えてくれた。マスクをして顔を隠して過ごしても、誰にも不審に思われない、後ろ指を指されることがない環境。かつてのように誰もが素顔を晒して辺りを闊歩する世界だったら、私はそれこそ虫のように暗がりに引きこもなければならなかっただろう。

 私を愛してくれる人がいなかった訳じゃない。ただ、私には自分がその愛に相応しい存在だとはどうしても思えなかった。広瀬さんもそうだけど、どうして私なんかに優しくしてくれるんだろう、って、ずっと不思議だったし落ち着かなかった。いつも、嗤われてるんじゃないかって思ってた。


 蝶はただ綺麗なだけだから良い。馬鹿みたいに口を開けて眺めていても、勝手に憧れても何も言わないから良い。鱗粉も、ただ眩しく輝くだけ。驕ることもなく憐れむこともなく、ひたすらに美しい――その、純粋さと貴さ。それが、私を惹きつける。


 こんなつまらない肉体(わたし)なんて、脱ぎ捨てられる蛹だと思いたかった。羽化できないまま何十年も過ごすなんて嫌だ。こんな私が死ぬことにも、意味はない。死と引き換えに蝶が飛ぶなら、その方がずっとずっと素敵なこと。価値があること。


 人類の叡智を寄せ集めてもなお、蝶を吐く病を解決することができないのも、きっと彼らが美しいからだ。もっとおぞましい姿をした虫なら、人の心を完全に折って絶望の淵に落とすことができたかもしれないし、逆に、人間だって必死に撲滅しようと戦うだろう。でも、蝶だったら違う。どんなに恐れても、同時に惹かれてしまう。だから蝶がいることを受け入れてしまう。慣れてしまう。

 病気だとしても生物兵器だとしても、あまりに感染力の弱い、愛しく儚い蝶たち。彼らがそれでも生き延びているのは、とてもとても綺麗だから。私みたいに、全てを捧げたいと人を狂わせる美の力。どんな牙より毒より強い力。私はそれにやられてしまった。




 階段を上り切ると風が吹いた。私の身体の内から吹く風は、蝶の翅の羽ばたきが起こしたものだ。耳を打つざわめきも、内側から聞こえてくる。これが羽化。私という蛹が役割を終えて、蝶たちが飛び立とうとしている。


 風が、喉をせり上がる。私を食い尽くした蝶たちが羽ばたく。自由な空へ。苦しくはない。ただ、無事に孵してあげられたことを嬉しく思う。私だからそう思うのか、脳にも至った蝶たちがそう思わせるのか。――どっちだって構わない。私はこの瞬間のために今まで芋虫として生きてきた。その想いは私のものだ。だからこの歓喜、この感動は私だけのものだ。


 ああ、ありがとう。最後まで視覚を残しておいてくれて。なんてまばゆい。なんてきれい。青い空に映える無数の煌き。青、赤、黄、碧。霧のように煙る鱗粉が、反射し合ってぶつかり合って。蝶たちが螺旋を描いて舞い上がる。私の口から一匹ずつ飛び出して。手足にも蝶が詰まっていたのか、だから立っていられたのか、やがて私はその場にへたり込んで、倒れていく。蝶の柱が聳えるにつれて、私は地に這っていく。蝶をうっとりと見上げて、多分ほんの数秒のことを、永遠の喜びのように噛み締めながら。


 最後の蝶が飛び立って、仲間の後を追いかけて舞い上がっていった。


 降り注ぐ鱗粉に目を細め、飛び交う蝶たちを見送って。そして、私は――

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