C.017 父
家の中の電気が灯っていることに気づいたのは、ドアの前までたどり着いて鍵を取り出そうとした時だった。
(今日は、いるんだ)
生温かな呼気が口元に膨らんだ。
鍵をしまい込んで呼び鈴を鳴らすと、内側から解錠される無機質な音が、コンクリートの廊下へ高々と響いた。
ドアを開けたところには、スーツに身を固めたままの背の高い男性が立っていた。
「お父さん」
里緒が名前を呼ぶと、彼は無言でそれを肯定した。
この男性──高松大祐が、里緒の父親だった。里緒にとってたった唯一の、大事な肉親でもある。
「帰ってたんだね」
開いたドアから中に踏み込んで、ビニール袋を置きざま大祐に声をかけた。うん、と大祐は唸った。
「あんまり帰らないでいると、ここが自分の家なのかどうかも分からなくなるしな」
「どうしよう。私、自分のぶんの食材しか買ってこなかったよ。連絡くれたら良かったのに……」
「父さんのことは気にするな。何とかするよ」
その言葉にほっと息をついて、台所へ向かった。
ともかくまずは買ってきたものを収めなければならない。冷蔵庫の扉を開けたら、眩しい庫内灯が台所の隅を明々と照らし出した。
その光の輪の端に、大祐が立った。
「段ボールの中身、まだ片付けてないのか」
「うん。……どうせ来客もないし、必要なものだって少ないし、整理の時間が取れるまではそれでいいかなって思うようになってきて」
買ってきた食材を整頓して冷蔵庫に押し込みながら、答えた。なんだか言い訳めいた口ぶりになってしまった。事実、混ぜた本音の割合は半分くらいだったような気がする。
大祐がタバコの箱を開けた音がした。冷蔵庫の整理を終えて里緒が振り返ると、ちょうど大祐は火のついたタバコをふかしているところだった。煙たい臭いが満ちて、噎せそうになった里緒は喉元に左手を押し付けた。
(お父さんの好きなタバコの銘柄、何だったっけ)
『blossom』とかいっただろうか。咳を殺した弾みで浮かんだ涙を拭っていると、懐かしい感慨が前触れもなく込み上げてきた。大祐は昔から愛煙家で、今みたいに平然と家の中でタバコを吸っては、肺に悪いといって瑠璃に怒られていたものだった──。
それも今は、遠い彼方で霞むセピア色の記憶。
いつまでも思い出に浸ってはいられない。冷蔵庫の扉を閉めて居間に戻ると、里緒はフローリングの床に座り込んで、カバンとクラリネットのケースを引き寄せた。宿題は出されていないけれど、受け取った教科書やプリントの類いをまとめて整えておかねばならないのだ。提出すべき書類だって残っている。
すると、不意に台所の方から大祐が声を上げた。
「クラリネット、学校に持っていったんだな」
他に答えようがなくて、うなずいた。
「まだ、吹いてるのか」
「……うん」
「…………」
大祐は黙って煙を吐いた。あまり機嫌の芳しくない証しだった。
「私にはこれしかないから」
ケースを片手で撫でながら、早口に答えた。
ひんやりと夜の冷気を帯びたケースは触れ心地がいい。けれど、本当は中に入っているクラリネットの管体の方が何倍も触れ心地がいいことを、里緒は知っている。里緒だけの知っている秘密だった。
タバコを携帯灰皿にねじって入れた大祐は、「まあいい」と独り言ちた。それから思い出したように話題を変えてきた。
「学校はどうだった。今日で二日目だっただろう」
「今日もまだガイダンスだから、大したことはしてないよ」
「そうか。……友達は?」
「……できたよ」
答えられるまでに、きっかり二秒の時間を要した。成長途上の小さな胸が、答えた刹那にずきんと痛みを放った。
「……そうか」
大祐も答えるのに二秒をかけていた。里緒と同じ痛みが、大祐の胸も貫いたのだろうか。そう考えたら痛みが余計に加速した。
大祐は里緒の隣に座って、一言、一言を噛み締めるように告げた。
「里緒。何かあったら、分かってるな」
里緒は無言でこうべを垂れた。
その言葉が大祐なりの優しさの表出の結果なのだろうと、里緒はいつも解釈するようにしていた。
大祐は都心に本社のある大きなIT系企業に勤めている。正確には、そうであるらしい。大祐はあまり仕事の話をしたがらないので、里緒も自発的に委細を聞き出そうとしたことはなかった。
ただ、高額な学費を別途負担しなければならない私立高校への進学もこうして許してくれ、この家にある家具類もあっという間に調達してしまったあたり、収入面の恵まれている職場なのだろうという予測はできた。即座に大きな金額を動かせるというのは、遣り繰りを切り詰める必要性がないことの何よりの証である。
今でこそ本社勤務の身である大祐だが、引っ越す前は仙台市内の最寄り駅から電車に乗って、都心部の東北支社に勤務していたらしい。その当時から、近隣のビジネスホテルで寝泊まりして家に帰らないことが稀にあったけれど、それは不倫や秘め事によるものではなく、仕事にかかりきりで終電を逃すという至極健全な理由からだった。
少なくとも、中学二年生の頃まではそうだった。
それ以降の事情は、里緒のあずかり知るところではなかった。近頃はもっぱら外泊が基本になり、家にはたまにこうして風のように気まぐれに立ち寄ることしかなくなったけれど、理由など聞いたこともないし、聞く気も起こらなかった。生活費に関しては十分な額が専用の口座に振り込まれるし、基本的にすべての家事を里緒は自力でこなせるので、そこに大祐の姿がないからといって日々の生活に不都合は生じなかったのだ。
(タバコを吸うのも外泊するのも、きっと、私が今もクラリネットを吹いているのと同じ理由なんだろうな)
そんな根拠のない曖昧な推測で、里緒は疑問の解を満たすことにしていた。たとえ曖昧であっても、そこには不思議と強固な“それらしさ”を感じることができたのだった。
結局、大祐は一度だけ部屋を出てコンビニに出向き、弁当を買って帰ってきた。夕食を作った里緒と二人、組み立てたミニテーブルを囲んで夕食を食べた。かわりばんこにシャワーを浴びつつ、お互い本やテレビに目を向けて。電気を消して寝静まったのは十時を回った頃だっただろうか。
翌朝、里緒の隣に寝ていたはずの大祐は、まるで初めから存在していなかったかのように忽然と姿を消していた。
「…………」
もう誰にも声を聞かれることのない部屋の真ん中で、里緒は大きく大きく、息を吐いた。
「私、そろそろ里緒ちゃんのことが可哀想になってきた」
▶▶▶次回 『C.018 新天地の日常【Ⅰ】』




